熙代勝覧(きだいしょうらん)


両国の江戸東京博物館で江戸開府400年・開館10周年記念「大江戸八百八町」展を見た。この博物館は2年ぶりだった。前回まで常設展は老人無料だったが、無料日は週1回だけとなっていた。大層な混雑で、特に企画展は押すな押すなの盛況だった。私のあとぐらいから入場制限をしていた。イヤホンを借りてせめて説明だけでも頭に入れようと思ったが、1/5ぐらいしか説明書きを読上げてくれないので、無駄遣いをしたという印象だった。会場はとてもじゃないが引き返してもう一度という雰囲気ではなかったので、図録を買って出た。以下に目新しく感じた情報を多少の感想・考察を交えて記す。今回の目玉資料はベルリンより里帰りした熙代勝覧であった。19世紀初頭の日本橋から今川橋までの繁盛ぶりを俯瞰描写した長絵巻の逸品である。
まず画かれた約1700人の歩き方を調べてみた。昔、洛中洛外図屏風の解説に「図が正しければ当時は歩くとき手足に位相差はなかった」、つまり右(左)手と右(左)足は同時に前(後)方に動かしたと書いてあったように思う。現代では180度の位相があって、右足を前に出したときは右手を後に振っている。我々は幼稚園や小学校で行進を教わるから、それを当たり前と思っているが、位相0度でも歩けなくはない。その洛中洛外図は室町か戦国の時代に画かれた上杉本だったと思う。もう終わったが、NHK金曜時代劇「人情とどけます」(江戸末期)では飛脚は位相0度で走った。厳密な時代考証ではそれが正しいのだそうだ。熙代勝覧にも飛脚が走っていて、確かに位相0度である。
だがそのほかの道行く人々はどちらとも云いかねることが分かった。町人は大抵荷物を抱えるか背負っているし、老人や駕篭かきは杖をついている。手の空いている人は侍身分が多いが、殆どが懐手に画かれている。女はゆったりと歩いていて手など振らない。なんとか手足の方向が判別できる人たちが位相に関しては半々なのである。別の、火事を画いた巻物にも多数の人物が画かれているのだが、この疑問にしっかり応えられるほどに克明ではない。人間の歩き方は位相に関して遺伝的に決まっているのだろうか。この答えを得るためには、サルとかもののけ姫的人物の研究から始めなければならない。
名作「隠砦の三悪人」では破れた国の跡継ぎの姫に対し"wanted"の高札がかかる。三船敏郎が姫の身代わりに偽って妹を訴人し、金5枚の賞金を手にする。戦国時代である。熙代勝覧に画かれた高札には「はてれん(バテレン)の訴人銀500枚」(正徳元年(1711))と書いてある。18世紀では金銀兌換率は1:13と云うから(世界大百科事典)、銀500枚は金38.5枚だ。高札の内容は違うが、時の政権にとっての最危険人物にかけられた賞金という意味で、物価比較の参考値になる。とすると江戸絢爛期には戦国の頃より7-8倍も生活水準が上がっていたと云うことになる。現代の金価格では38.5(枚)x43(匁/枚)x3.75(g/匁)x1325(円/g)=822.6万円である。金価格ではなく、生活物価換算にすると、[500(枚)x43(匁/枚)/50(匁/両)]x(10〜20)(万円/両)=4300〜8600万円ぐらいであろう。ものすごい金額である。
「大江戸八百八町」図録の図30に現代東京都内平均サラリーマンと江戸時代(文政期)大工の年収比較がある。前者が600万円、後者が27両、幕末に近いから10万円/両として270万円。大工は実入りがいい方だったらしい(江戸の米屋勤番侍・酒井伴四郎勤番侍など参照)から、平均としてはまあ200万円だろう。一方山椒大夫からは平安中期を江戸時代の1/10ぐらいの生活と踏んだ。どのデータもも1つ頼りないが、丸めて纏めると現代に比べて江戸時代は1/3、戦国時代は1/20、平安中期は1/30位の生活程度と言うことだ。
瀬戸物町入口の表示がある。今はもうこの町名は無くなっているが、三井越後屋があった三越本店前の室町仲通りの両脇で、日本橋室町1丁目と日本橋本町1丁目に跨る地域であろう。「人情とどけます」の定飛脚十六屋が設定されている場所である。この交差点には3方向の木戸が立っている。1つは室町通りを、1つは瀬戸物町通りを、もう1つは向かい側の駿河町通りを閉鎖できるようになっている。番小屋は2軒、自身番屋が1軒見える。時代劇では盗賊の跳梁跋扈が話題を賑わすが、実際は大江戸は世界にも希なほど犯罪が少ない治安の行き届いた都会であったと理解している。町民50万人に対して、町奉行所の直接担当である三廻り同心がわずかに24名であった。勿論目明かしなどの下請け機構があってできた話だが、町の責任で番屋を置き番太を雇い、夜間の治安を木戸を閉鎖することで守ったのが効いていると思う。交番システムとか隣組組織はその名残であったが、今はどちらも緩んでしまった。新興の町に行くと、大きなマンションが内庭を建物で囲って住民以外立入禁止にしている。治安維持にはやっぱりある程度の閉鎖性は覚悟せねばならないと、最近は思うようになった。
江戸人は数年に1度は火事で焼け出されたそうだ。大江戸と今の都会で一番大きな違いは火事に対する経験である。こればかりは誰しも現代に生きることを感謝せねばならないだろう。熙代勝覧に画かれた僅か数百mの距離に町の火の見櫓、と言っても屋根上に設けられた簡単な枠付きの台であるが、が何基見えるか勘定した。24-5基ある。土蔵や土蔵作りの店も数多い。しかしあんなに密集していては土蔵の効果も低いのではないかと思われる。ちなみに三井越後呉服店は土蔵作りではない。防火用空地とか道路幅の拡張と言った都市計画、火消し組織や設備などは次々に改善されたようだが、耐火構造建築としては土蔵までで、難燃性または消火性材料の採用までは行かなかった。防衛を防災に優先させたためなのかちょっと不思議である。
常設展には徳川家伝来品のコーナーがあり、今回は、島津の姫が近衛家の養女の資格で将軍に嫁いだときに持参したらしい、多分雛祭りのお道具らしい日用品のミニチュアを展示していた。尾張の徳川博物館、大分臼杵のヤマコ美術博物館、村上市郷土資料館(オシャギリ会館)でも見た。大名雛やその雛道具は素晴らしいものだ。その中でも徳川宗家の品は保存状態の良さもあって他を圧する数と美しさがある。特に胡弓のミニチュアが目を惹いた。大名家では胡弓の演奏などが普通にあったのか、それとも島津だからか。
国立歴史民俗博物館、江東区深川江戸資料館、消防博物館に江戸東京博物館と、これで4館に出入りしたおかげで、「お江戸でござる」の松浦日向子先生には遠く及ばないにせよ、少しはお江戸が身に付いた気がする。

('03/03/12)