
- 江戸東京博物館の展示に大工の生計バランス・シート(文政年間漫録)が例示されていた。勤番侍でも紹介したように、その収入年27両は少々多すぎるのではないかという疑問が残った。上大工で年収が3両という渡辺和敏愛知大学教授には直接手紙で聞いたが、一般的知見だそうで、特に文献の提示はなかった。
- 沢田ふじ子:「闇の掟」に京都公事屋下代(番頭)の手当が幕末半世紀前に年5両、手代のそれが3両と載っていたように思う。渡辺先生の話はほぼこれに見合っている。武家女中は2両前後だったらしい(後述「江戸の米屋」)。公事屋の奉公人も女中も通いではないから、実質はこれに1年の飯米代1日1朱2分すなわち年に1.2x354/60=7両を加えねばならぬ。渡辺先生の話は顎付き住み込み大工の手当なのだろうか。一方明治元年の話として裏店では18両/親子5人/年で楽に暮らせたという記事(「江戸の米屋」)もある。黒船来航前が1両=10万円で幕末は1両=4万円だとすると、文政期でもこの家族は年10両は稼がねばならなかっただろう。年3両あれば何とか生きて行けるというのが江戸時代小説の常套句だが、これは独り者が棟割り長屋でカツカツの生活をする場合を云っているのであろう。NHK TV時代劇になっている宮部みゆき:「本所深川ふしぎ草紙」(実際は「初ものがたり」)の「鰹千両」ではそれが1両になっている。この場合ははっきり1人あたりと言った。棟割り長屋の家賃がどのデータでも年2両はかかるから、1両は食い扶持だけを指しているのだろう。そう考えても雑穀だけの、餓えと隣り合わせのキチキチの生活になる。ともかく自己流で辻褄を合わせてみた。文系の人々が持ち出す数字はとりとめが無くて困ってしまう。
- 1日の手間賃はそう幅はなくて渡辺先生は銀5-8匁、漫録が5匁4分、明暦大火後の公定(「江戸の米屋」)が上大工で3匁となっていることを知った。飢饉時の米相場と同じく、大火後の賃金は騰貴したものらしい。日雇い人夫だと公定料金が0.86匁だから大工はその3倍以上の高賃金であった。
- それでは米の値段はどうだったのか。漫録が書かれた文政とは1818-30の期間である。世の中は騒がしくなり始めていたがまだ黒船は来ていない。この時蔵米が1石1両、精米小売りが1.67両=銀100匁であった。0.67両が商人と撞き米屋の手数料である。蔵米相場は幕末にかけていくらか騰貴するが、それまでは大体安定していたと思われる。だが、町人が買う小売相場は大変動する。銭100文で普通は上記の通り1升なのに文政の次の天保7年は飢饉のため4合となり、政治不安の幕末慶応3年には僅か1.1合しか買えなかった。しかし宝暦2年(1753)には3升も買えたのである。江戸東京博物館で教わった文献、土肥鑑高:「江戸の米屋」、吉川弘文館に載っているデータである。ただし私の想像がかなり入っている。この本は文献の引用に忙しく痒いところに手が届かない。庶民が買う小売米は白米か半撞きか玄米か。飢饉時の米価が強調されているが、平時、豊作時などを荷重平均的に捉えればどうなるのか。統計的にものを考えようとする姿勢がないので、何か新聞種に振り回されているような不安を感じる。一般向けの出版なら、データのないところは自説で補完し、読者の誤解を避ける努力をするべきだ。
- 江戸時代の日本はギリギリ食料生産と消費がバランスしている社会であった。農業技術は自然の猛威から飢饉を防ぐほどには発達していなかった。輸出入が一切無い鎖国状態であった。こんな条件で蔵米から先を自由競争にすると何が起こるか、それに政治不安でも重なればどれほど悲惨になるかを上記の僅かな数字が十分物語っている。現代は日本を世界に置き換えて考えればよい。中国が大消費国としてバランスに顔を出す日は間近だという。今でも全地球的には食糧不足だろうが、金を出せる消費者でない人たちが頭数の計算に入ってこないから、見かけ上は食料が余っているだけだ。この食料安全保障は一時日本の外交主題だったが、最近は唱えられなくなった。早めに生産国を囲う手を打っておかないと戦中の食糧不足の悪夢をまた見る羽目に陥る。
- 江戸の大工の年収の話から米価に入った。当時高収入の部類だった大工でもエンゲル係数は大変に高い。その中でも米の占める比重は圧倒的だ。一番多く引用した文献「江戸の米屋」を表題に選んだ理由である。
('01/07/02)