破戒

- 島崎藤村が世に問うてからもう1世紀近くになる小説である。初めて読んだのは半世紀以上昔である。その本がなぜか今頃岩波文庫から改版で店頭に出たので、何の気もなく買ってしまった。年を取ると、若い頃に読んだ本を味わい直す人が多いと聞いたことがある。私もその1人なのだろう。
- 明治の中頃、信州飯山の小学校教師・丑松が、それまで隠しに隠してきた穢多の出自を生徒の前で告白し、学校を去る物語である。明治維新により身分制度は無くなり、穢多は新平民と呼ばれていた。しかし実社会では、依然旧身分に基づく差別が厳然として残っていた。当時は教師が穢多だなどと云うことは、この世にあり得ぬ非常識とされていた。今では被差別民の問題は、ほぼ完全に歴史問題となっていると認識できるのは同慶の至りである。二次大戦敗戦直後の一時期を過ぎると急速に沈静化したのは、積極的な教育のおかげであろう。
- 丑松は「、、穢多は御出入と言って、稲を一束ずつ持って、・・一年に一度は必ず御機嫌伺いに行き・・・。・・、土間のところに手を突いて、特別の茶碗で食物などを頂戴して、決して敷居から内部へは一歩も入れなかった・・。(皆さんが)・・、用事でもあって穢多の部落へお出でになりますと、煙草は燐寸で喫んで頂いて、御茶はありましても決して差し上げないのが昔からの習慣です。」と穢多を説明する。穢多を多少は知っていたつもりであったが、飲み食いから煙草の火まで完全に分離し、敷居も跨がせない差別までは思い及ばなかった。
- 丑松は獄卒と捕手を勤める一族の「お頭」の家柄であったと書いてある。穢多は職業として、農業と麻裏製造、靴、三味線、太鼓、その他獣皮に関するものの製造、または兵馬の売買なぞに従事しているともある。そして彼らの中にはいくつもの階級がある。屠牛場の屠手は最下層の新平民だと書いている。調里とも四足とも書いてあり、指を四本出してみせれば穢多を指すとも書いている。この小説には非人が同意語として出てくるので、穢多とどんな差があるのか広辞苑で調べてみた。非人は、江戸時代の賤民の一で、「えた」と違って、生産的な労働に従事せず、卑俗な遊芸、罪人の送致、刑屍の埋葬などに従事したとある。それから「破戒」では「番太」が一段上の乞食階級だとされている。広辞苑の番太とは違うようだ。いづれにせよどれももう死語に近いから、時代小説を読むときは注意が必要だ。
- 主人公の丑松は生真面目で面白味の少ない穢多シンドロームに落ち込む性格の持ち主だが、その補償作用からか学校では生徒に慕われ人気が高い。学校では師範卒としてエリートコースにあるという設定も、ドラマチックな最後を引き立たせる。丑松はよく描けている。脇役の描写にも惹き付けられるものがある。零落士族の51-2歳の老朽教員で中途退職せねばならぬ敬之助の、希望のない破滅的な生き方と家族の悲惨さは、以前読んだときはあまり気にならなかったのに、今回は注意を引いた。下宿先の住職の表では行い取り澄まし、裏では養女に卑しく迫る仏僧にはあるまじき生き方もまあ書けているいると感じた。しかし丑松を陥れる校長、同僚、議員候補者などは共通して打算的であり、友人は大袈裟に云えば刎頸の交わりを惜しまぬ友として出てくる。ちょっと個性に乏しいように思える。善根の人と性悪の人をこんなにはっきり区分せずともいいのにと思った。女の描写も単純である。これらは明治の時代がもたらす限界なのであろうか。
- 「破戒」の取材旅行は千曲川のスケッチに纏められている。「破戒」の随所に「スケッチ」内容が姿を変えて出てくる。もっとも出版は「破戒」の方が早いそうだ。佐久小県丘陵地帯の牧場と牧夫、上田の屠牛場と牛を殺す瞬間、巡礼、秋収穫期に日の暮れまで働く農婦とその子供、地主と小作の小作料を決める交渉、千曲川を船で下って飯山に至る旅路など幾つも思い出せる。藤村は小諸で一軒家を借りて住み、小諸義塾という私立学校−旧制中学校相当か−に英語国語教師として7年間勤めた。「破戒」の中の下宿先の蓮華寺と飯山の公立小学校は、「千曲川のスケッチ」には出てこないが、生活体験の延長先にあるのであろう。
- 学校では丑松は今なら教頭という地位の主座教員である。教員の中で師範出は友人と2人だけで、あとは正式教育を受けていないようだ。それでも正教員は何らかの資格検査に合格しているのであろう。準教員は無資格と言うことだろうか。丑松は師範を出て3年目の若さとなっている。教員養成が間に合わない実状がよく分かる。映画「二十四の瞳」でも子供たちは師範出の高峰秀子を「えらい先生」と呼び、女学校(「イモ女」だったか)だけの先生と区別していた。昭和の初めまでそんな状況が続いたのであろう。
- この学校には女子教員もいる。江戸末期の寺小屋の師匠は男子だったが、音曲の師匠は女子だったろうから、明治に入ってからの女子教員の採用には抵抗感はなかったのであろう。学校には小使いがいる。事務員は出てこない。旧中込小学校でも小使室は大きな間取りであった。私の小学校の頃にはまだこの小使いさんが学校にいた。何でもやる便利屋さんで、休み時間には子供の相手をしていた。懐かしい思い出である。「破戒」では宿直室で2人1組の宿直がある。私の小学校でもやっていた。今はもう無いのだろう。
- 丑松の担当は高等4年のクラスである。15-6歳の年齢いう。これは数えだから、今なら14-5歳だ。高等も尋常も4年の記述はあるがそれ以上の5年6年はない。就学初年度が今と同じなら、当時の学制は高等も尋常も4年づつだったと思えば辻褄が合う。私が小学校の頃は尋常が6年で高等が2年であった。女生徒はいるが高等4年にはいないようだ。尋常から高等にあがる女生徒がいなかったと云うことか。生徒の中ではのけ者にされながら新平民の男子生徒がいる。四民平等に向かって、ともかくも歩み進んでいる1世紀前の社会を象徴している。
- あの時代を呼吸した人が殆ど鬼籍になってしまい、その孫あたりの我々がもう老年に入っている。我々は断片的に爺さん婆さんの思い出話を記憶している程度だ。次の世代はどの程度明治時代を実感できるのだろう。この「破戒」は田舎の社会構造の特に影の部分を剔るように描いて貴重な文化遺産となった。
('02/11/24)