旧中込学校


小諸から小海線を滑津へ行く。2両連結の気動車である。単線だ。佐久平以外は無人駅だ。車掌が2人居て1人は切符売り、もう1人は運行係をしている。駅の間隔が短いから、一人二役はやれないときもあるのだろう。扉はボタンを押さないと開かない。乗り降りが少ないから、扉全部を開けると冷暖房のロスが大きいからだろう。車内は空いていた。車窓には別に変化を感じなかった。ちらほらと何処にもある民家が途切れずに現れ消える。降車駅の滑津は車掌に教えて貰った。私を入れて3-4人降りた。小さな2-3坪の待合所だけで、駅舎など初めから計画されなかったようだ。
旧中込学校はすぐに見付かった。解体修理されて現役時代の姿を見せている。文明開化への意気込みを感じさせる和洋折衷の建物である。中央の八角太鼓台が象徴的だ。その天井には四周の土地の名が書かれ、その外周に更に世界各地の著名な地名が書かれてあるという。教場は4つ、それに講堂、校長室、教員室、教員控室、小使室、生徒控室に便所。廊下の丸窓のガラスは色付きだ。総建築費6千円あまりを殆どこの寒村内の寄付で賄ったという。現在価値でまあ6千万円である。
京都でもどこかの小学校の沿革に、似たような記述があったことを思い出す。教育の価値が広く一般に理解されていたのであろう。それに、子供の教育はお上ではなく自身でやるものという、寺小屋以来の伝統が身に付いていたことを思わせる。小泉首相は、環境サミットか何かで、途上国に千何百億円の援助を申し出たときに、教育の効用を改めて強調せねばならなかった。開発途上世界の実状がそう言わせしめたのだ。維新当時は日本も今の開発途上国と似たり寄ったりの生活状況だったろう。思想や伝統の支えがないと、いかなる援助も砂漠に水であることを改めて思い知る。私は途上国の首脳達が一度この校舎を見学されたらよいと思った。
私は同種の歴史的建造物を幾つか見た。松本の旧開智学校(明治9年)、甲府の旧睦沢学校(明治8年)、卯之町の開明学校(明治15年)。この旧中込学校は明治8年完成という。島崎藤村が小諸義塾の教師となって赴任する24年前だ。漱石が松山の中学校に赴任するのは明治27年で、その19年前である。他にも全国各地にたくさん校舎が残っていると写真のパネルが示していた。消えた校舎も入れたら全国にどれほどの校舎が建てられたのか。維新の熱気は薩長や士族だけのものではなかったことを示している。4年で終わったり、6年だったり、8年だったり、就学年数はまちまちである。不就学児童には女子が多い。旧社会の構造の歪みである。維新の改革が旧思想に対抗するものであるにもかかわらず、その土台に乗っかって、ことは進んだのである。一足飛びに社会は進歩できない。
1時間に1本程度の気動車を30分は待った。15分ほどしたら土地の婆さんが現れて、色々話しかけてきた。乗ったのはこの2人だけ。その人は次の駅で降りた。私は佐久平で新幹線に乗り換え、わが家で夕食にありついた。

('02/09/19)