千曲川のスケッチ

- 島崎藤村:「千曲川のスケッチ」の改訂版が岩波文庫に出た。なぜ今頃といかぶりながら買ってみた。藤村は丁度今から100年ほど昔に、7年間小諸義塾に国語英語教師として滞在し、千曲川畔の旅情をスケッチ風に書き残した。巻末の解説では、明治中期より盛んとなった言文一致の運動が、ようやく完成を見た記念碑的な紀行文であるという。藤村はこの7年を境に詩人から小説家に脱皮する。私は文学的価値もさることながら、1世紀前の人々の生活風俗が、どんなに書き写されているのだろうと言う興味で読んだ。この本の半分は自然の季節ごとの、ことに冬の描写に費やされている。だから以下は、残りの半分に対する私の印象感想である。
- 小諸義塾とは旧制中学校相当らしい。そこの学生を連れて秋に修学旅行に出掛ける。小諸から甲州街道を南下して甲府に至る。そこから諏訪、和田を経て帰る。第1日は甲州との国境川上の八ヶ村までだ。この千曲川上流に至るスケッチが文章に残されている。小海線(昔の佐久鉄道)はまだ着工されていないから、おそらく53-4km(13-4里)はある道のり全部を歩きだ。国境は牧草地で、甲州から、秣を食わせるために、馬を引き連れてくる農民に出会うが、彼等はなんと日に16里を歩くという。私は少年の頃一度だけ日に12里を歩いた。当時を思い出して、昔人の健脚ぶりに驚く。甲府から諏訪までは丁度中央東線が建設中であった。旅行の正確な年月が判らないから、汽車に乗れたかどうか微妙である。諏訪から和田峠を越える中山道には今も鉄道など敷かれていない。旅行はまる1週間かかったとある。
- 八ヶ村は信州でもとびっきりの辺境である。白米はただ病人に頂かせるほどの、貧しい、荒れた山奥の一つであるという。米が貴重品であることは他にも出てくる。小作人が定屋様(地主)と小作料を決める押し問答がある。しっかりは判らないが、生産量が籾6俵(=3.8石)でその75%が年貢のようだ。すると手取りは1石にもならず更に精米したら7-8斗だろう。これが家族7人分である。平素に米が口に入る道理がない。麦は裏作だろうが、それも小作の年貢に入っていて、夏の豆、蕎麦などが小作の利得になるのだそうだ。その小作人は学校の小使である。彼はあちこちの畑の手伝いにも出向く。牧夫が月10円と書いてあるから、その程度の現金収入が別にあることになる。現在価値に換算して2万円。それでも伝え聞く現代の中国農民よりはましな生活と言えそうだ。
- 貧しくとも人情豊かな交際を伺わせる記載が、あちこちに見受けられる。八ヶ村につくと、校長の家に下女奉公した娘の家から、提灯つけて旅舎に訪ねてくる人がいる。教師など安月給の見本だと思うのに、藤村の家でも、子守の娘を雇った時期があるようだ。頭数が減ればいいという「おしん」と同じ時代なのだ。乳呑児を負ぶった女の乞食巡礼が門に立つ。5厘銅貨1枚と柿を報謝して身の上を聞く。学生を連れてキノコ狩りに出掛け、山番の家でご馳走になる。同僚の持ち山と言う関係のようだ。山歩きは好きだったようで、別の章では米と牛肉をぶら下げ、泊まり掛けで番小屋を訪れている。牛肉は特記するにたるご馳走だったのだろう。藤村は山の生活を色々取材している。
- 冬、飯山に娘2人を同伴する。世話を頼まれたらしい。彼女たちは小学を終えて、師範校の講習を受けるために飯山に行くのだという。汽車は豊野までで、そこから飯山までは千曲川を川船で下る。親はそんな遠方へ小さい娘をよくも手放したものだ。今読んでいる武光誠:「県民性の日本地図」、文春新書、'01の冒頭の方に「長野県人は教育熱心だ」という俗説があると書いてあるが、何かその俗説を思わせる逸話である。20何カ所の寺院が並ぶ城下町だ。インターネットで町の観光のページをめくると、「寺の町」と広告していた。信州でもとりわけ雪深い場所らしく、家々の軒先には「ガンギ」を渡して往来させるという。今はどうなっているのであろう。雪道を歩くのに、草履の先に「爪掛」を付けると書いてあった。私は爪掛を見たことも聞いたこともない。
- 筒袖の半纏に、股引、草鞋履きで、頬被りした農民は、朝日が射す頃には肥桶を担いでいる。収穫期はことに忙しく、日が落ちて暗くなってもまだ作業を止めない姿を描写している。一般に女がよく働く土地柄だそうだ。養蚕は盛んで、やらぬ家は殆ど無い。桑畑の記事が多い。景観は今とはだいぶ違っていたようだ。寺院も収入を養蚕に頼っていたようだ。暗い蚕棚の、襲うような臭気の中で、時には徹夜で蚕を守る労働である。こんなきつい生活だから祇園祭の楽しさがある。繭の仲買人が来て、町が潤った頃だ。結構荒い御神輿らしい。巡査が制止に声をからしている描写など面白かった。学校には養蚕休も祭日休もある。
- 文明開化が千曲川の畔でも実感され始めた。信越本線敷設が沿線に鉄道草を蔓延らせた。鉄道草とはヒメムカシヨモギのことである。アメリカのセイタカアワダチソウが全国に蔓延するのは戦後の話だ。リンゴの試植が行われ出した。牛肉を担いで上田からやって来る商人がいる。屠牛場が上田にあるからだ。その見学記がある。嫌がる牛の頭に尖った鉄管をたたき込むとドウと倒れる。鬼平犯科帳には江戸時代にも牛肉を食った記載があるが、こんなにも一般化していなかっただろう。祭りには西洋婦人の姿が見える。軽井沢あたりからくりこんだらしい。町娘の中には洋傘をさす子がいる。学生が昼食にパンを持参している。だが、書いてある限りでは、衣も食も99%はまだ伝統的である。住に関する記載はない。学校や役所は洋館風だったのではないか。習慣も殆ど変わっていない。ただ小作人の同盟罷工の記事が目に付く。
('02/03/14)