貨幣博物館

- 貨幣博物館に行ってみた。日本銀行の側にある。そう広くはないが立派な専門博物館である。貨幣の個人コレクションがそもそもの中心になっている。美術館でも博物館でもコア・コレクションがあると骨太に育つ。ここもその一つと言えそうだ。
- 和同開珎1文で米2kg近く買えたとは驚きだった。それが皇朝12銭の後期になると僅か13gしか買えなくなる。1合が12文だ。古代に両という単位はなかっただろうが、鐚銭並みに4貫1両とすると1石4両になる。江戸時代は1石1両である。このように大幅な価値変動が見られたのは、貨幣の質が後世ほど悪くなった理由の他に、銭そのものが民衆には不慣れな流通手段であったためでもあろう。売買契約書に銭を使った例は3割程度だそうだ。中世には専ら中国貨幣それも主に宋銭が使われた。中国では日本と違い貨幣制度は継続したから、常に標準であった唐銭、宋銭、明銭の相対価値がどうだったかを調べれば、日本の古代の価値体系が現代価格で表現できるはずである。私は「山椒大夫」で安寿と厨子王が7貫文で売られた話以来、大昔の物価に興味を持ち続けている。いつか調べてみたいと思っている。
- 明治維新で両が円になった。あの混乱期にあって両と円の接続はどのように進められたのか。これも私の基本的な関心事である。その回答は展示から明解だった。金1.5g=1円である。それが明治4(1871)年で、明治30(1897)年に金0.75g=1円に切り替えられた。旧来単位で発行された政府紙幣は金1両=1円で新紙幣と交換された。旧金銀貨幣は金銀含有量に応じておおむね上記評価法で交換されたという。万延小判1両で試算してみよう。含有量は金1.9g、銀1.4gだから、当時の銀が金の1/15だとすると(1.9+1.4/15)/1.5=1.329すなわち1円32銭9厘だ。実際は1円30銭4厘で交換されたという。江戸初期の慶長小判は10円を超したから、改鋳改鋳で、貨幣の質は1/7~8に落ちていた。それにもかかわらず少なくとも米換算では1両=1石で、ほぼ一定だったと云うから、幕府の計数貨幣は信用絶大であったと言える。
- 大坂は銀遣いであった。改鋳の危険性を考えたら、グレシャムの法則に則り良貨を備蓄に回し、取引は貴金属の質量−秤量貨幣−で行うのがもっとも安全である。その意味では流石に商人の都である。秤量貨幣が金であれば云うことはなかった。しかし日本の秤量貨幣は銀で、銀本位制はグローバル・スタンダードと言えなかった。銀は、幕末期から明治中期にかけての金本位制への移行と対金相対価格の低下で価値が暴落した。銀価格は、明和期では明和5匁銀と元文小判の対比で考えると、金の1/11.5の価値に定められている。天保期では1/5だった。ついでに元禄期では1/13.4。元禄、明和、天保と時代が下るにつれて銀価格が上昇し黒船を迎えた。黒船後では嘉永1朱銀で計算してみると、金に対して銀は1/17位で換算されている。世界市場価格では銀がずっと安かったのである。さらに1890年代には銀は明治初年の半値になった。古金貨を蓄えて維新を迎えた人は完勝である。銀で蓄えて来た人は黒船を迎えるまではホクホクだったが、その後は青菜に塩だったはずである。
- 播州赤穂藩断絶の際、大石内蔵助は藩札の6割を幕府通貨と引き替えた。之は大変な善政として忠臣蔵にも取り上げられている。明治維新でも藩が無くなった。新政府は旧藩の引き換え準備高に応じて新紙幣と取り換えたそうである。面白いのは勝ち組の土佐藩、薩摩藩が32-3%と極端に悪い点で、維新戦争の戦費に蔵を空っぽにした様子が推測できる。大坂に近かった尼崎藩、財政改革で名高い米沢藩が100%であるのも肯ける。
- 展示の紙幣の歴史は面白かった。起源は関ヶ原の合戦の頃まで遡るという。世界的にも古い方だという。伊勢山田地方で秤量銀貨の釣り銭の替わりに発行したのが始まりらしい。江戸時代には御所札、寺社札、公家札、宿場札、鉱山札、村札などなど色んな紙幣が出ていた。幕府は紙幣を出していないと思っていたが、幕末のインフレに負けて江戸及横浜通用札というのを出しているそうだ。明治の初期も紙幣は太政官札をはじめとして府県札、為替会社札、明治通宝札、国立銀行紙幣などを経て日本銀行券(銀貨兌換券)にたどり着く。1885年である。日本銀行券にいたって紙幣表示価格と銀貨の価値が同じになった。西郷札は紙切れになった紙幣として有名である。
- 時代ごとの貨幣価値はこの種の博物館を見るときに必須の参考データと思う。江戸時代のそれは米価とか大工手間賃で示されていた。しかし円に切り替わったあとの貨幣価値を考える上に必要な参考データは何も展示されていなかったのが残念であった。インターネットで調べると1桁も違う数字が引用なしで出ていたりして参考にならない。金兌換券であった時代の1円は、地金換算で、明治30年では現代価値1050円と出てくる。しかし米換算では5000円はしたはずである。
- 私は小学校4-5年生の頃に兄との間だけに通用するお金を作った。包装に使われていたいわゆる銀紙がお金になった。これを秤量貨幣よろしく切銀にして、兄の所有物を買いまた私の所有物を売るのである。タダの包装紙で私の方がたくさん買ったから兄は損をした。総領の甚六である。なぜそんな遊びを思いついたのかよく分からない。キラキラ光る薄い紙様の物質が貨幣になると本能的に感じたのであろう。多分その頃は大判も小判も知らなかったと思う。財に関する漢字には貝が付く。漢字が出来た頃は南海産の貝が装飾材として珍重されていたからと云う。西太平洋の離れ小島で通用していたという貝貨もなかなか見事な工芸品であった。ヤップ島の石貨は小さいときから知っていた。説明には400km以上離れた島からカヌーで運んだそうで、大型取引に実際に使用したのだという。この石貨だけはなぜ貨幣なのか理由が分からなかった。
('03/06/16)