隣町(続)

ここいらで食い物屋を開くとしたらと考える。うどんに中華などは広い縄張りは必要なかろう、だがちょっとお出かけ気分が必要な店なら50KM圏内には同格の同業者は欲しくない。国道脇では一見さん相手だ。落ち着かぬし、お得意さんを確保できぬ。だから町中だが、外からくる人はどうしてくるか。人口が密集していないわが地域では、気のきいたレストランにはお目に掛かれない理由である。
わが城下町にはその企業の息のかかったホテルがあって、最上階まで登れば見晴らしの良い席から本式のフランス料理が楽しめるが、何しろ陛下がおいでになったとき全館陛下の貸し切りにしたホテルである、ちょっと敷居が高くてお出かけ気分を何乗かしないと入りにくい。手ごろなお店をと思っていたら昨年隣町に二店が相次いで開業した。町としてはこちらの方がやや大きいが近隣からのアクセスは隣の方がよいことはこの前のエッセイ「隣町」で述べた。だからこっちに立地するのだろう。どちらも駐車場を精いっぱい取ったコンクリート肌に原色ペンキの店である。まだ和風建築の多い町になんとも調和しない外観は好きにはなれないが中身はあるかもしれん。
まずはフランス料理店。ここは開店以来やんやの人気で、何時間待たされるやらとおじ気付くぐらいの繁盛ぶりである。ともかくちょっと時間を外した昼飯を食う。もちろんサービスランチ。まだかなり混んでいる。大半が女性グループ残りはファミリーグループ。たまに若い男女が入ってくる。ちょこまかいろんなものが皿に乗っていて、それにコーヒーとデザートが付くのだから断然割安感はある。ひとまずは満足して帰ったが、一晩明けて思い出し一週明けて思い出す。だんだん終局の印象に昇華してくる。甘すぎるのである。やっぱ田舎フランスであったか。ここにはもう行かなかった。
次はメキシコ料理。外見のけばけばしさとは対照的に内部は天井の高い開放的雰囲気のまずは合格点のやれる構造である。どこでも料理屋ではメニューの読解がこれ一苦労。私が自信の持てるメニューはうどん屋ののみである。日本料理でも懐石クラスは当たらずとも遠からずの程度である。中華のレパートリーもいたって狭い。海外に出ると、飯のお品書きには、何十年の外国語勉強も殆ど役に立たないと思い知らされるときがある。当たり前である。読んでいる専門の文献にはない言葉がずらりと並ぶからだ。この店のカタカナ・スペイン語も翻訳付きだがさっぱり分からぬ。眼鏡を外して細かい日本語の説明を読む。読んでも何だかわからん。こんな時はサービスランチである。注文の品がくるまでこれをどうぞと云ってとうもろこしの揚げ煎餅を置いて行った。この煎餅にトマトと唐がらしの練りものを載せて食う。なんとも珍妙な組み合わせだが、こいつが大いに気にいった。ランチそのものは幾分たれがかわった風味という西洋料理であった。
メキシコが気に入ったので、また出かけた。前回の延長線上に味を想像している。どうせメニューはテキーラしかわからんから、今度はシェフお任せとやった。なるべくメキシコらしいやつと後から考えると一言多い注文をした。全く驚いた。とにかく前菜からメインディッシュまで一品毎に強烈な個性の雑草が入っている。ハーブとか云うのだそうだ。野菜のように飼い慣らされていないから、遺伝子の自衛本性むき出しの匂いと味をもっている。食って貰いたくないからこんな癖のある反感覚的体液を持っているのだろうが、それを逆手に取っているメキシカンは相当なわるだ。この強烈さはどの感覚に働いて知覚されるのだろう。ともかく今回の料理には嗅覚も味覚もパニックに陥ったと云う印象だった。味にうまいと言う味覚があることはわが国の科学者が見つけたが、これは穏やかな日本料理のおかげである。どの感覚もバカバカ絨毯爆撃を受ける料理では、ちょっとうまいなんて繊細な味覚は単離出来ないのではないか。
本場インド料理も一回二回はよいが、三回目になると強烈さを舌と鼻が本能的に思い出してしまって、ブレーキを掛けるという意味で似ている。こっちはハーブじゃなく香辛料であるが、お口にとっては似たようなものである。何故か関東のわが家近くに二軒もあってよく出かけたが、何度食ってもいいのは主食のナンと紅茶だけだった。こういう料理は世界の主流にはなれないスペシアルティーなんだと改めて思う。

('95/10/15)