百読は一見に如かず?

もんじゅのナトリウム漏れの再現デモ実験がNHKで放映された。色鮮やかに燃えるものである。しばらくはこの混じりけの無い色に見とれていた。関係者は予想どうりの燃え方と云っていた。私は事故最初の報道が爆発?で、その後相当大量のナトリウム反応物がばらまかれているというから、ずっと空中の水蒸気との反応ばかりを考えていた。前に化学工場考で可燃物が地表を漂うときの恐ろしさを書いたが、吹き出したらとたんに火がつくのだから、ナトリウムは御しやすい相手である。漏れに立ち会っておれば、工場の中でアセチレンガスによる溶接をやっていると言った雰囲気だったのだろう。
この事故で最初に批判の火の手を上げた京大の某助手は渦中の人になられたようで、その後わが県にもおいでになり、講演なさっている。原発反対派の主催で聴衆は30名程度だったと報道された。その人も、また再々引用させて戴いた桜井氏ももんじゅ二次ナトリウムを不活性ガスで覆う構造体にせよと云う提案をされている。私はそれには反対である。漏れた液体を早く固体のより不活性な化合物に置き換えることこそ、災害の局地化と二次災害の防止に必要な施策である。防災に立ち向かう人たちの活動も不活性ガスの中では全く制限されてしまう。何でも敏捷な初期活動が被害を食い止めるのに有効である。
私は作りかけの格納容器を見たことがあるから、第一感として、格納容器の外の事故は内部に対し、殆ど影響を及ぼさないと思っている。だから二次ナトリウムの漏れに対しても化学工場並に考えて良いとしてきた。格納容器が無くても、一般に下流側つまり二次三次のプロセスが上流側に影響を及ぼす場合は少ない。しかし、奇想天外に、影響力のある事故が万一起こるとどうなるかを心配されるのだろう。それはここで議論しても始まらぬ。ともかくここら辺の議論になると、もんじゅを技術的にきっちり把握しているエンジニアの世界で、どんなに詳細の説明があろうと、彼らと同じだけの勉強をしていない我々は、おぼろげに輪郭が分かる程度でしかない世界である。巨大工学の対象は、行き着くところ、作った人々とそれを動かす人々たちを信じるか信じないかではないだろうか。
更にその先には信じれる人々を教育で育てているかに行き着く。極端な話、事故の最中あるいは納期が時間単位で押し寄せてくるのに、時間になりましたハイさようならとなるのでは、原発は任せられん。今時の学生を見ていると、会社は採用のときに、ここを一番大切にしているのではないかと思う。昔近鉄の特急が赤信号に気付かず退避線の普通電車と衝突して大事故を起こした。そのとき運転手が粉々の肉片になる瞬間まで電車を停めようと操作する姿が見られたと言う。何十年かして国鉄の衝突事故のとき、運転手が、運転台に引き込んで遊ばせていた自分の子供とともに、衝突前に慌てて転がり出てきたと言う記事を読んだ。死ねとは言わぬが、職業意識、責任感何を取っても大変な差がある。時代の差と言って済ませられる問題ではない。倫理教育をさぼっていると言う問題である。
反対派の人々もあのナトリウム漏れがどんな風に放射能漏れにつながるのかと聞かれれば困るであろう。桶屋になって風が吹いたらもうかる理屈を言っても、もっともっとひどい論理まで相手は用意していて、その確率は幾らと返事が帰ってくる。とことん反論するつもりなら、反対派は自分なりの原発設計をやらねば議論に勝てぬところまで準備されていると思う。

('96/02/23)