
- バードウオッチング、ホエールウオッチングと最近はウオッチングばやりである。夏にもなればウオッチャーがどっと押し寄せて人口が倍になる小島の話を聞いたばかりである。
- 私のウオッチングは蝶々ウオッチングである。昔は採集して歩く虫屋だったんだが、「ぶっせつまかはんにゃはらみたしんぎょう」とお経を唱えながら四国八十八箇所を巡礼してからは殺生は一切絶って功徳を積みつつあるから、どんなに涎が出そうな希品にであってもただただ眺めるだけにしている。云っておくが、ここの蝶は鱗し目の蝶類で霊長目人類の夜の蝶ではない。
- アメリカに負けたとき科学力の差を思い知らされた年層の人々は思い当たるであろうが、一時科学的思考の鍛錬にどこの学校も昆虫採集を夏休みの宿題にした。珍種であろうと俗種であろうと手あたり次第に取られるので、我ら虫屋は大いに迷惑したものである。ともかく虫場虫場にどこから聞き込んでくるのかワンサカ捕虫ネットのはやしが出来てうんざりしたものだった。今はもうそんな宿題はないようだ。
- 当時の虫仲間で今も殺生を稼業としている連中はけっこういる。病みつきになるのである。町で個展を開いて悦に入っているのはこんな人たちだろう。たいていは医者を始めとする自由業に属する連中だ。金と暇がいるのである。今日少しはなれた町で展示があると云うので出かけてみた。
- 鳥と違って蝶は飛び方がとても個性的である。正確には個性でなくて種性である。人気の秘密である羽根模様は飛んでいるときは判りようがない。分類の基本は勿論その模様である。しかし虫屋には飛び方でその蝶が所属する種が判る。飛んでいる姿から種を当てるのは採集を止めてからもう半世紀近いと云うのに割と出来るのである。ぎらぎらと競争意識をむき出しにして虫捕りに集中した時代の動画的視覚の記憶が甦る。夢に出てくるときは別として、目を醒ましている間では、我々の頭はテキスト風記憶に占領されている。画像であっても静止画面的である。テキスト的記憶の無い他の動物ではもっと動画的なんではないか。ヤツらの頭の中は外国語のテレビを見るようないきいきしたものなんだろう。などと思いながら可憐な蝶の舞に目を細めている。
('96/10/20)