久しぶりの歴博
- 歴博の「平成19年度企画展示 新春展示」をお目当てに、久しぶりに佐倉に出掛けた。「新収資料の公開」、「幻の博物館の『紙』」、「日本の建築」の順に見て歩いた。
- 「新収資料」に漆工制作関係資料というコーナーがあり、輪島塗系の漆工芸作家の遺品が展示されていた。輪島塗の工房は見たことがないが、木曽塗の奈良井宿の工房や愛媛・桜井漆器の工房を見学したことがある。でも系統だって素材まで細かく見るのは初めてであった。Japanは日本だが、japanは漆や漆器を指す。わが国の古くからの実用工芸品で、常設展には縄文式土器時代(?)の出土品として漆器が並んでいる。今は塗りにいろいろ便利な合成素材が用いられるが、天然品では漆ほど堅牢な塗布材はないであろう。上記奈良井で買った吸い物椀が、もう20年ほどになるのだろうが、未だにわが家で健在でその耐久性には驚かされる。だがウルシオールの高分子化(固化)は酵素反応で、微妙な環境条件の下で行われるから、また漆そのものも産地に性質が依存するだろうから、職人の経験と勘は、多分マニュアル化を許さぬ本質工芸的な内容なのであろうと思う。昔の中国の職人は事業を子どもに継承させるために、微量づつ漆を食わせると聞いた。ウソか本当か知らない。免疫を得るためだという。このかぶれの問題が一層工芸的にさせている。道具展示だけでは、漆は何も判らぬと云うことだろう。
- 「新収資料」の近代東京・山の手婦人のキモノは、時代が新しいだけ酸化によるやけが少なく美しかった。昔歴博で京都の呉服商が残したコレクションの展示をやったことがある。今回の蒐集品は昭和20年頃までという。年々和装が廃れてゆく。今後もキモノの蒐集には力を入れて貰いたい。先に本HPに載せた「江戸奉公人の心得帖」でも感じていたことだが、キモノの色、柄とか模様あるいは種類を示す呉服の名称は、もう理解されにくいのではないか。小袖と振袖の差だって漠然としか判らない。展示品にはなかったと思うが、例えば本結城縞、加賀竜紋、桟留とは?花色が紫を帯びた鮮やかな青で、憲法色は少し赤みを帯びた黒だとは「心得帖」で知った知識である。親切な展示が望まれる。もう一つ「新収資料」で気に入った展示品は葬儀祭壇・棺車であった。展示されてみると、なるほど母の葬儀と義母の葬儀では祭壇が違っていたと思い出す。宗派は同じであったので、地域の差、葬儀社の差かと思っていたが、時代の差であった。千葉におりながら、千葉では'80年代まで土葬が一部行われていたとは知らなかった。
- 「幻の博物館の『紙』」は、渋沢敬三が企画して果たさなかった日本実業史博物館の構想のうちの、紙関係を展示する。このHPの「渋沢神社」に渋沢家三代の軌跡を載せている。渋沢神社は祖父と敬三を祀る神社で、青森の古牧温泉渋沢公園に建っている。王子製紙は渋沢家の事業の一つであった。旧王子製紙跡地にその関係者による紙の博物館がある。なかなか充実した専門博物館だ。そちらで展示する方が本来的であるとまず思う。手漉きの工程は、漆と同じで職人の技を見ないと何も理解できない。渋沢敬三の構想はきっと展示の道具で実演してみせると云うことだったろう。私は愛媛の川之江町紙のまち資料館で、おもちゃ風の手漉き道具で紙を作ってみたことがある。こりゃ手に負えないワというのが実感だった。
- 敗戦を国民学校(小学校)で迎えた世代だから、今ならプラスチックや軽金属を使う製品に、紙が幅広く利用されていたことを知っている。千代紙は女の子が遊びに使っていた。紙の着物などは、記憶に間違いがなければ今でも東大寺の法会で使われているから、飛鳥奈良の時代にまで歴史が辿れるのであろう。関東大震災の教訓で紙のテントが実用化されたと云うのは聞き始めであった。防水には油紙、強度アップには、漆紙とか柿渋紙あるいは張り合わせ。セロファンの展示はなかった。戦前唯一の人造紙(再生セルローズ)であった。金唐革紙は本HPの「旧富豪邸庭園」「小樽」に紹介している。輸出用でもあったらしいが、国内の明治大正期の諸建築に残っている。
- 小樽ににしん御殿「旧青山別邸」がある。鰊漁の網元としてお大尽になった青山家の隆盛を伝えているという。小樽に寄港するたびに思案するんだが、ちょっと町はずれのために未だ訪れずにいる。「日本の建築」には旧花田家番屋と鰊漁場という副題がついていた。番屋の1/10模型と鰊漁の映画を見せる。番屋は現物が北海道留萌郡小平町に存在する。ただ加工工場等の付属建築物群はもう実在しない。加工とは鰊を茹でてから鰊油を搾り取り、魚粕を肥料として得るための作業である。千葉県立博物館には鰯から同様の作業で肥料を作るジノラマがある。鰯と鰊、どちらが肥料として多く使われたかというとどうも鰊らしい。たしかに千葉には鰯御殿鰯番屋などないから、網元の規模も段違いであったのだろう。今は鰯も鰊も高級魚と云うから、根こそぎ乱獲の仕返しとは怖ろしい。鰊そば、鰊昆布巻きなど押し頂いて食わねばならぬ。鰊漁は、北原ミレイの石狩挽歌ですっかりお馴染みになった。歌にある女が飯を炊く情景は映らなかったが、映画は最後の鰊漁の風景を撮った貴重なフィルムだそうだ。きつい労働だ。だが仕事がある限り社会は健康だ。皆黙々と懸命に働いている。仕事が途絶えると、陰気が社会を覆って、連中は仕事を作れない指導層富裕層に牙を剥く。どこかの国の話である。
- 「ジャコ萬と鉄」という映画があった。古い古い映画である。私が見た範囲では、唯一鰊番屋が舞台の映画だ。花田家番屋と違って全く人家から離れた浜辺にあり、無法地帯とも云うべき環境の荒々しい男の世界が表現されていた。残念ながら記録映画には番屋の中までは撮していなかった。最盛期には200人もの漁夫が雑魚寝をしたという。シーズンの山小屋のようであったのだろう。昭和20年代後半には鰊が回遊してこなくなり、ミレイが唄うとおり、番屋は寂れて「オンボロロ・オンボロローローロ」になり消えていった。花田家番屋が町の保存事業により重文になったのは幸運であった。番屋が網元居住区と漁夫居住区に切り分けられ隣接している。野上弥生子が、「迷路」にであったか、臼杵の醸造家であった生家を描写している。蔵人と家人が隣接して居住し、一体になって経営するが、双方の間には厳密な精神上の仕切があって、互いにそれを乗り越えない生活をする。番屋でもそれに近かったのだろう。昔々、あの生家を訪れたことがある。彼女の部屋は2Fの道路に面した小部屋だったように記憶する。実地に身を置いてみると何となく雰囲気が判る。花田家番屋もいつか訪れてみたい。
- 企画展を見学したあと、常設展を駆け足で見て歩いた。住んだ場所、旅行先などにはつい足が止まる。京都市は別格として、丹後半島本庄浜の宇良神社祭礼絵巻、同じく丹後半島伊根町の舟屋の実物(模写、模型)には心が泊まる。江戸時代展示室はまだ改装工事中であった。長崎県立博物館で注意されて以来、写真の可否について神経質になっている。歴博では展示室ごとに可否が出ている。フラッシュを遠慮すればたいていのところで撮影可である。フラッシュを嫌う場所は紙とか絹の資料で、展示品は複製ばかりだが、その劣化を防ぎたいという意向であろう。
- 歴博は外出自由なのがいい。企画展を半分ほど見た頃昼が来た。散歩を兼ねてくらしの植物苑を訪ねた。冬の華サザンカ展は終わっていたが、色とりどり形とりどりのサザンカはまだ鑑賞に堪える姿で残っていた。フクジュソウ、ハナナ、ロウバイの花も見た。サザンカはサザンカ群、カンツバキ群、ハルサザンカ群、タゴトノツキ群に分類できるらしい。素人目には区別が付かない。群という分類用語には馴染みがないので、戻ってから調べてみた。北村、村田:「原色日本植物図鑑木本編(U)」、保育社、'79には、サザンカはツバキと同じつばき科つばき属でカンツバキはツバキとオキナワサザンカの雑種、サザンカの園芸腫とされるタゴトノツキはオキナワサザンカであると載っていた。この図鑑にはユキツバキという種がツバキと並んで載っている。本州北日本海側に自生する。紛らわしい。
('08/02/06)