冬の長崎
- 飛鳥Uによる12/20~25のXmas 長崎・別府花火クルーズに出掛けた。冬の長崎は始めてである。北の函館に似て、見どころの多い町だ。今回は、原爆関係のモニュメントを見ようと、初めから決めていた。滞船中に我々が利用できる時間は、7時間が精一杯なので、要領よく行動せねばならない。出発前の天気予報は雨だったが、幸運にも雨雲は前夜に通り過ぎてくれた。朝食の時同席のお年寄りが、ひいじいさんがシーボルトの蘭学の弟子であったと話してくれた。シーボルトが娘イネに残した医療道具を、あとで県立博物館で見ることになるとは思わなかった。船は予定の11時より早く松が枝埠頭に接岸し、下船が始まった。接岸の時、高校生のプラスバンドが軽音楽を演奏し、我々はプロムナードデッキから拍手を送った。歓迎祝典が行われたのはいつもの通りであった。本日は特別に11時から昼食が始まる。我々は早速に11Fのリドカフェで洋軽食を取り、長崎見物に出発した。
- 路面電車の最近接駅は大浦海岸通である。これ私鉄である。駅に行く陸橋で京都からの親子4人組に出会う。ここで下船し九州旅行を行うらしい。幼い子供たちはとてもかわいかった。築町で降りて原爆資料館方向の電車に乗り換える。乗り換え券を出す。どこまで行っても100円。電車は定着しているようで、乗客はこの時間でも多かった。浜口駅で下車。まず歴史民俗資料館に行く。企画展として三菱長崎造船所の歴史をやっていた。飛鳥Uの前身であるクリスタル・ハーモニー、火事で有名になったサファイア・プリンセスのほか、数々の軍艦が造られている。もっとも有名なのが戦艦・武蔵だ。あとの県立博物館の見学で、長崎造船所が元々は幕府の長崎製鉄所だったことを知る。
- 長崎原爆資料館で被爆の恐ろしさを再認識した。投下予定地は眼鏡橋下の常盤橋であったが、逸れたのであろう、今の平和公園上空で炸裂した。長崎の町は、両側から迫る山によって2つに縊れ分かれている。本当の長崎は海岸側故、目標通りであったなら即死の被害はもっともっと多かったであろう。でも3km内に今の市街地はすっぽりと収まるから、投下位置がどちらでも市民が甚大な被害を出したことには変わりはない。原爆外観および内部構造模型が展示されていた。高性能通常爆弾により、中心に置いたプルトニウムを、異常に圧縮して臨界点を得るという原理であったと思う。親の死骸脇に呆然と立ちつくす、自身も被爆の小さな女の子、被爆の弟か妹を背負いながらさまよう少年、明らかにケロイドを皮膚に刻まれながら、ぼんやりと救援物質のおにぎりを握っている母と子などの写真は胸をえぐる。彼らは遅かれ早かれ息絶えたはずである。資料として残った物は全部断片といえるほどに、すざましい破壊力であった。梯子や人影が写真のように焼き付いた壁も見た。怨念を表に出さず、それらを出来る限り科学的に解説しようとする、努力というか執念というかは、立派である。
- 平和祈念像に行く。両脇のお堂には広島のように折り鶴が無数に垂れ下がっている。お賽銭と祈りを捧げた。公園を出ると文明堂総本店というカステラの店が出ていた。名物だからそれを食べさせるだろうと中に入ったが、カステラほかを売る菓子店で、喫茶はやっていなかった。でもサンプルだと言って一人二切れのカステラを出してくれた。聞くと文明堂と名の付くカステラ店は何軒もあるが、だいたいは互いに独立の関係なのだそうだ。東京にも文明堂が3軒あるという。電車は松山町から3系統に乗って諏訪神社前で降り、神社の鳥居の列の中頃で左に折れて、長崎歴史文化博物館に着いた。途中に日銀の長崎支店があった。けっこう立派な支店で、地名に残っている銭座の名残を思わせた。銅銭を鋳造する座が、江戸時代には長崎にも設けられていたのだったと記憶する。
- 特別企画展は翼竜でこれは省いた。長崎奉行所ゾーンとと歴史文化展示ゾーンに分かれている。両方で600円。長崎には、この博物館の位置にあった立山役所の他に、東西の奉行所があり計3カ所に役所があった。奉行は立山役所に常駐した。奉行所では、白州でのお裁き風景を、ボランティアが20分ほどの寸劇で見せる。犯科帳に残された記録を元に再現しているそうだ。観劇者参加型と言って、役者のお奉行が入場すると「お奉行様おなりー」とか声が掛かり、観劇者は「ハハー」と平伏してかしこまる。時間がなかったので私は練習だけで、ゴロツキ風犯罪被疑者が引き出されたあたりで中座せざるを得なかったが、最後まで見たかった。オランダ船や中国船から持ち込まれた輸入品は、禁制品でないか検査し、値踏み検定され、会所で商人に入札される。その品々の一例だろう一部屋にならべられていた。
- 歴史文化展示ゾーン入り口に、南蛮屏風があって、その内容が説明されている。各登場人物の身分が分かるように、服装持ち物従者等の違いが示されている反面、船の帆が描き抜けていたりする。絵図の目的もあるのであろう。和服の女が子供と共にオランダ人の男と船を迎えている。これ現地妻らしい。朝鮮ゾーンがある。朝鮮通信使一行は500名に及んだ。NHKの「その時歴史が動いた」に、対馬藩の国書偽造事件として紹介されたばかりであったので、興味深かった。かって宇和島の伊達博物館で見た接待内容とつなぎ合わせて、朝鮮通信使が、国威にかけて持ち込んだ文化の内容に思いを馳せた。
- オランダ船、唐船との交易の基本は量を量ることである。大きな天秤が再現されていた。外国の使う分銅と日本の分銅が比較され、換算率が分かったことであろう。単位は、たとえば同じ貫でも、時代によって変動しなかったか興味がある。ガラス製の銘酒瓶が置いてある。何の変哲もないウィスキー瓶ほどの大きさだが、瓶だけで今の高級ウィスキーと同じくらいの値がした。貿易商品の値段を知る上で貴重だという。長野の田中本家博物館にもギヤマン瓶が展示されていたが、長崎から離れたその地では、何倍もの値段になった貴重品になっていたはずであると思いを巡らす。中国との貿易は何となくオランダとの交易に隠れて地味であるが、船の数は年にオランダ船が1艘に対しジャンクが4艘ほどの割だったようで、展示の1/50模型の比較で、総トン数でジャンクがオランダ船の1/3~1/4だとすると、まあ貿易總積み荷量としては同程度であったのだろう。日本からの輸出品が銀銅ことに純度の高い銀であった。
- 唐人たちのお寺が残っている。前回の長崎訪問で寺町を巡ったが、興福寺とか崇福寺という寺はその内にある。洛中洛外図と同じく長崎の町を描いた絵図が多数残っている。生活を活写している。町屋の一つが実物大に再現され、祭りのお膳が蝋細工で展示されていた。長崎は町全体が貿易会社のようなものであった。年総経費が15千貫ぐらいで5.2千貫が労務費に相当する。一番下の借家人への手当金が年2回半両づつだったと記憶する。米1石が1両の時代だ。まあ半人扶持ぐらいだ。貿易に関する多くの役務で苦労であったろうが、何しろ独占事業だから町は裕福だった。今に伝わる長崎くんちの豪華さはその証である。いろんな絵図に長崎の生活が記録された。出島の異人さんの生活もよく伝えられている。宴会の控え部屋で楽隊が楽器を演奏しているところなど、映画で見た近世の貴族の館を彷彿とさせる。
- 諏訪神社前の通りから長崎公園を経て博物館の2Fに入った。奉行所前あたりに鼈甲細工の店があり、家内はそこを動かなかった。予定では出島を見ることとなっていたが、時間的に厳しくなっていたので、諦めて私はもう一度歴史文化展示ゾーンに入り直した。出口はミュージアムショップのある1Fで外からの眺望はまた変わっていて写真になった。長崎会所(貿易所のこと)跡という石標がある。坂の多い町と実感した。公会堂停留所から大浦海岸通に出、あとは歩いて船に戻った。空路長崎に来、ハウステンボスに泊まり、夕刻乗船した人がが40名ほどいたと聞いた。
('07/12/28)