松阪

新幹線往路の車窓から雪を被った富士山が見えた。8-9合目あたりまで白かった。戻りに見たときはそれがかなり少なくなっていて、頂上まで黒い地肌の筋が繋がって見える部分があった。2泊3日の旅中にいくぶん寒さが和らいだのであった。京都で催された恩師を偲ぶ会に出席した。100名からの出席があったと思う。
夕方の特急で近鉄京都線橿原線を行く。伊勢志摩までの直通もあるのだが、この電車は大和八木で大阪線特急に乗り換え。この大和八木までの沿線風景は昔の面影をすっかり失って、大阪の、質の高くないベッドタウンと言った雰囲気になり、美しい奈良の都の景観など想像もできない、ごみごみした印象に変わっていた。近鉄の沿革は複雑で、この旅で通った京都−大和八木−松阪−名古屋の路線を、私の京都在住時代と比較すると経緯の一端が判る。昔は京都から奈良へを奈良電と言った。同じ標準軌だったが、今より許容車幅は狭く架線電圧は600V(今は全線1500V)で、近鉄大阪線へは乗り換え必至だった。名古屋側は狭軌のため、直通はあり得なかった。JRとの競合が今日の便利な近鉄を作ったのであろう。今は全線共通仕様になっている。インターネットで調べると、阪神電鉄との相互乗り入れ('09工事完成予定)が計画中という。姫路あたりから私鉄で伊勢志摩に行けるようになる。名鉄は狭軌だから乗り入れは不可能だ。名鉄は、同じ狭軌同士ということで、JR在来線との相互乗り入れに実績がある。松阪には19時頃到着した。松阪探訪の理由の一つは、京都が丁度シーズンで、手頃ないつもの宿が満杯だったからだ。
宿で貰って置いた地図は役に立った。松阪市は、現在合併で広がって、17万人ほどの人口になっている。国道42号線と県道松阪環状線が取り囲むあたりが多分旧市街で、その真ん中を南北に旧参宮街道が走る。勢州18万石を統括する松阪城には紀州藩の城預かりの城代が置かれていた。駅前から歩き始める。最初の八雲神社と善福寺は隣り合わせで、それは明らかに神仏混淆の証である。明治に入って神仏分離を行ったが、もし欧米文化という一神教の外乱がなければ、「ヒンドゥー教」に見たように、両者はいずれは一体化したであろうと思うと、双方を拝礼して矛盾をいささかも感じない自分の血を宜なるかなと合点する。八雲神社参道両脇に寄進者石標が立ち並んでいて、鍛冶町中、新町中、日野町中、中町何丁目などと読める。現在に残っている町名もあるが消えたものもある。鍛冶町は神社前一帯であったようだ。旧地名がところどころに標識で示されており、その由緒も並記してある。米沢の町や鶴岡の町がやはりそうであった。紺屋町とか博労町も消えた地名であるとあとで知った。
八雲小路を経て旧参宮街道に出る。四つ角に石道標があり「左さんぐう□」とある。樹敬寺には塔頭跡と書かれた立て札が数カ所に並んでいた。次の來迎寺とともに大寺であったようだ。両寺の間に白粉町公園がある。白粉町と言えば後述の「城がある町より」の遊廓を連想するが、あとで歴史民俗資料館の2F展示パネルにより、伊勢は水銀白粉の産地であったと知った。その生産は昭和28年まで続いた。伊勢は和銅年間以来の水銀の産地であった。水銀U化合物はたいていは有毒だから、白粉の化学組成は気になる。製造法からは塩化第一水銀が主成分のように思われる。水に溶けずU価ではないから使えたのだろう。でも水銀U化合物に変化する、あるいは少量不純物として含む可能性はなかったのか。
美濃屋小路を経て今は殿町という旧同心町に向かう。私がこの松阪に観光旅行したいと思った切欠は、TVで見た旧同心町の武家屋敷の家並みであった。町入口に診療所、料亭があり、空地になった場所もある。だがすぐ昔の生け垣が道路の両側に並ぶ、屋敷町の風情となった。生け垣にマキを使っている家が多い。建物は建て換わってはいるが、和風の家屋ばかりである。敷地の広さを歩幅で測ってみる。上級武士が住んだ横手の武家屋敷跡よりは少し狭いのは当然だろう。12-3mX25-6mで約100坪の1戸建てである。同心というのは下級武士だ。隣の三重県立松阪工業高校前にあった絵図は、その位置が堀の外であることを示す。同じ下級武士でも御城番は組屋敷(34坪/戸の長屋、敷地は100坪、畑作りをしている。)を堀内に持つ。御城番は紀州藩士と書かれている。
同心町の武士は、紀州のお殿様から見れば、直臣ではなく陪臣なのだろうか、だから住む場所に差を付けているのかも知れない。支藩ならはっきり陪臣で、稲田騒動を軸にしたNHK時代劇「お登勢」でも、本藩武士が支藩武士を見下ろす様が描かれていた。あちこちの武家屋敷を見ていつも思うことは、40石取り程度の軽輩にして、今の都会なら上流社会住処並みの家を持てたということである。「鶴瓶の家族に乾杯」で紹介される、収入の格差が騒がれる農村の住宅事情が、都会人が羨むばかりに豊かであるのと似ている。豊かさはゼニだけの問題ではないとつくづく思うし、農村へのバラマキに走りたがる議員さんによく理解して貰いたいと思う。
明治の赤壁校舎が保存されている。応用化学科の扱う硫化水素により壁が黒化するのを防ぐため、朱(硫化水銀)を塗ったとあった。松阪神社と本居宣長ノ宮は堀内の小さな丘に並んでいる。本丸以下の城郭構造とは離れているので、攻城戦の時この丘は何の役に立てるのかちょっと理解しがたい存在だ。松阪神社には、初宮詣りであったのか着飾った赤ちゃん連れがいた。昔は堀の城側には堀の土を積み上げた土居があった。石垣の中が狭義の城だ。急勾配の石段を上がると隠居丸があり、宣長の館・鈴屋が移設されてある。宣長は鈴が好きであった。もともとは旧参宮街道の魚町橋に近い位置にあった。本居宣長記念館が別にあって彼の業績を伝えている。国文学者、政治学者、医師、薬剤師と多才の人で長寿であった。本丸から歴史民俗資料館に下りる。資料館は明治の和風建築だ。松阪城址には城付帯の建築物は一切無く、鈴屋、記念館と資料館が建っているのみである。資料館に明治時代の写真があった。城が城として生きていた時代を偲べる、数少ない資料のようだ。
城跡に梶井基次郎文学碑がある。「城のある町にて」は松阪をイメージして書かれた短編小説だという。インターネットにこの小説が公開されている。梶井は大正13年夏の1ヶ月ほどを姉夫婦の住む松阪に滞在した。その時の経験を私小説風に描写している。小説の舞台を教える地名は城の本丸から見えるI(伊勢)湾の入江(今はもう見えないのではないか。)だけだが、(旧参宮)街道が望めると云うからまあ松阪に違いない。そこは都会に住まう主人公から見ると田舎町である。本丸から眺めると百姓屋、青田、樹林が望めると云うから、昔の市街地は私の思っている範囲より狭いのかも知れない。義兄の実家のある北牟婁(尾鷲市に近い郡名)地方も、さらに対照的な片田舎の貧しい山村として描かれている。惜しむらくはこの小説は心理描写に重きを置いていて、当時の佇まいを想像するには内容が乏しい。でも素朴な人情を伝える挿話や当時の社会風習は楽しく読める。芝居小屋に一家が出掛ける話は面白かった。旧仮名遣いと旧漢字。小説に記録された土地の訛りは今回の訪問では聞けなかった。老人の「ごわすな」、やや敬語めいた「おいでなしたぞ」「ますで」、否定の「いかんのやさ」、そのほか「しやんし」「よぼって(呼んで)やっとくなさい」などなど。関西系であることは明らかだ。紀州藩だから当然かも。
松阪もめん手織センターをちょっと覗き、豪商長谷川邸(見学不能)、本居宣長旧宅跡を通り過ぎてからさらに北に進むと、あちこちに派手に看板が出ていた「松坂牛のステーキを食わせる洋食屋」牛銀本店に行き着く。丁度昼時で席待ちの観光客が大勢門前に屯している。諦めた。近くは米沢で経験したが、気軽な1人旅では名物料亭とかレストランには入り辛い。牛銀以降看板に注意して、松阪牛で空腹を満たす機会を探したが、行ってみると、どうにも戸を門を潜る気がしなくなる。結局昼飯は簡単な駅内立ち食いソバだった。三井家発祥地の立派な門を通りすぎて、松阪商人の館に入る。少なくとも江戸時代は松阪は裕福な町であった。当時の全国長者番付に、三井を初めとする長者が何人も入っていたそうである。
この館は旧小津清左衛門家住宅で、今は少し狭くなっているが、旧参宮街道に面し、矢下小路、職人町通りと川辺の通りに囲まれた、矩形地面の半分を占拠する広大な屋敷である。あとの半分は正円寺と小津という表札の私宅になっていた。土蔵が米倉以外に3つあり、家屋には梯子段が付いている。上がれなかったが、2階は、街道筋ではよく見かけるような、天井の低い物置構造になっているのではなかろうか。横を流れる川に錦鯉が何匹も泳いでいた。御厨神社、岡寺、竜華寺、法久寺、清光寺、養泉寺、清光寺、本覚寺と歩いてやっと松阪駅にたどり着いた。どの社寺も、敷地をずたずたに切り売りするような落ちぶれた姿ではなく(門前が民家になったりはしている。)、相応に格式を護っているようで、土地柄を思わせる雰囲気だった。寺町通りとは云わないようだが、寺の多さに少々驚いた。
正味5時間は歩いたろう。健脚の人なら4時間以内だ。松阪はお勧めできる観光都市である。

('07/12/01)