長岡京遷都

歴博の企画展:「長岡京遷都−桓武と激動の時代−」を見た。西のポンポン山、南西の天王山の山裾の丘陵地帯(長い岡)から桂川流域に至る広大な都があった。時代が戦後でなくなるまでは、桂川に近い一帯は農耕地帯であり、村落は専ら丘陵の小高い位置に点在していた。今は道路に沿ってぎっしりあまり見栄えのしない家屋が建ち並ぶ。JR東海道線と新京阪京都線が平行して走っている。車窓から眺めると、旧部落と新家屋のコントラストが、損なった街道風景を象徴するかのように思える。ポンポン山は手頃なハイキングコースだった。天王山麓の山崎は長岡京域外だが、サントリーのウィスキー工場で有名だ。私の両親は兄が生まれたとき、域内にある長岡天神の御池に鯉を1尾放したそうだ。京域とくに宮域であった場所にはそれらしき地名が残っている。昔2万5千分の1だったか詳細な地図に載っていたことを覚えている。
その日は仁藤敦史(歴博歴史研究系)、山路直充(市立市川考古博物館)両先生によるギャラリートークがあった。2時間近い説明で、殆どを前者が話した。桓武天皇が人心刷新のために平城宮からの遷都を決心される。だが本格造営の宮であったのにも関わらず、わずか10年で平安宮へ移転してしまう。桓武天皇とはいかなる人物か。中国の正史は、王朝交替の時に新王朝が交替の理由を明確にするために編纂するというのが慣例だったが、日本書紀に続く続日本紀は在世の桓武天皇の治世にまで及ぶから、後世史家のように、天智系vs天武系で王権継承を区別するような意識は帝には無かったと云える。弓削道鏡が皇統に数えられている天皇家の系図があるのに驚いた。1200年以上昔の天皇の意識など問うだけ無駄という気がしないでもない。南都の大寺は伴われなかった。寺院勢力の排除は改革の主題であったことは認めることが出来る。桓武天皇御陵は伏見城築城によって行方不明になった。破壊されたのではない、陸墓候補地はある。
奈良時代の女帝即位はそう珍しくない、平安時代に入ると女帝が絶えて幼帝が多くなる。奈良時代の皇后は公的立場の独立性が高かったが、平安期にはいると後宮に女御、更衣などと同居、つまり妻妾同居という形に押し込められる。私にはどちらも女権の消長を物語るように思える。
長岡京の造築は副都・難波宮の解体移設から始まった。出土瓦から朝堂院のような政治直結の重要建造物から建設されたことが判っている。難波宮跡は大阪城の南に公園として残されている。公園は宮域の一部だけであろう。難波宮関係遺品はむしろ長岡京出土品の方に保存状態のいい姿で残っているという。淀川の水運を利用し、最後は運河を通って長岡に運ばれた。都の船着き場跡が発掘されている。平城宮の建物も再利用された。こちらは木津川の水運を利用したという。柱は掘っ建て式だったので、埋まった部分は抜けず、鋸で空中部分だけ切り取る。短縮部分を補うために接ぎ木をし、また礎石に載せる工夫をする。出土の柱材が展示されていた。全体の1/4から1/3ほどが長岡京で焼かれた瓦であった。
支配地盤から長期出張の形式で都の官僚機構に取り込まれた豪族貴族が、次第に本拠を都に移すようになる。鬼頭宏:「人口から読む日本の歴史」によると幾内(大和、山城、摂津、河内、和泉)の平安初期の人口は58万あまりだ。現代は1290万ほどだから1/22である。人口希薄な場所に整然とした計画都市を造り、区画120mX120mごとに氏族に割り当てて行く。でも住民抵抗は現代中国を見なくても必ずある。造宮使・藤原種継暗殺事件は案外追い立てられた住民に原因があるかも知れない。主犯とされた早良親王の押し込め寺として有名な乙訓寺などは遷都以前から存在していた。でも暗殺事件にあって当然の旧仏教勢力の背景はどこにも報告がない。
生活遺跡は興味深い。風呂の変遷はどこかの展示で見た覚えがある。遺構は寺院とか宮殿のものだ。庶民のレベルではどうであったかを知る機会があったらいいのにと思う。便所の模型が展示してあった。和式のただし金隠しを取り除いた汲み取り型が奈良時代以降の普通の形式だと思っていたが、今回は秋田の城柵内で見付かった水洗式トイレの展示もあった。個室になっていて、使用後は瓶から柄杓で水を流し、ダクトを経て下水道?に汚水は流れ去る。ローマ帝国遺跡では、大浴場跡などあちこちに、水洗式共同便所が見付かっている。並んだ丸穴の下に水路があって常時水が流れている形式だった。日本海側に当たり前に見られるサケを媒介とする寄生虫の卵が見付からないから、きっと外国使節団とか高給中央官僚が使用した、迎賓館施設の一部であったのではないかと書いてあった。
先月末のNHK:「世界ふれあい街歩き」で、ルーマニアのドラキュラの里の中世の城塞を見た。砦の見張りの兵士が用を足すための穴が備えられていた。「爆弾」は鳥の糞のごとくに放りっぱなしになった。イギリスの城郭構造でもそんな説明を見た覚えがある。中世は不潔な時代で、ロンドンでは2F、3Fなど階上の住人は、朝が来ると便器の汚物を直接下の道路に放り投げたという。南仏の街並みの紹介の時にも同じようなナレーションがあった。さて展示に戻る。トイレットペーパー代用品が置かれている。木の篦だ。使用後は便器内に捨てている。そのあとはどうするのだろう。ある程度貯まったら、集めて畑に埋めたのだろう。長岡京の商店リストには野菜屋がないそうだ。多分広い敷地に畑があって、野菜は自給自足になっているのだろう。家屋は平屋。こう見ると中世のヨーロッパよりずっと長岡京の方が衛生的である。
皇銭が展示してある。貨幣の流通が経済発展を助けた。単位は貫文である。江戸時代になると安定期には1文が25~30円だったことは知っていたので、仁藤先生に長岡京時代の貨幣価値を聞いてみた。1日の労働の価値が1文だったという。労働とは肉体労働を指すようで、出来高払いのような場合と理解した。ワーキングプアの話題で出てくる賃金は5~8千円/日である。文以下の貨幣単位はなかったのだから、日常生活は相変わらずの物々交換であったのだろうか。ちょっと納得しかねる説明だった。
蝦夷との戦争は34年に及んだ。本格的戦闘は4回の征夷軍によって戦われた。最近明らかにされた征夷大将軍坂上田村麻呂の墓は、発掘品と史書の記事から本物と信じられている。多賀城を初めとする蝦夷との国境付近に置かれた城塞は、太宰府もそうだったが、計画都市と政務官庁を備えた小京都で、都との違いは城塞の有無であった。軍事と政治の両方の中心地として設置されている。中央からは征夷大将軍、副将軍と彼等の手兵数百が送られてくるが、実戦部隊は主に関東から徴収された。兵器装備食糧なども含めての兵站基地が関東であった。多賀城付近には今も関東内と同名の地名を残している場所がある。これはその土地の豪族が郎党を従えて駐屯していた名残である。多いときでは2万を超す出兵をしている。時の関東の人口は100万足らず。大変な負担だった。降伏した蝦夷の首領アテルイとモレは都に送られ、田村麻呂の助命嘆願にもかかわらず、処刑された。勇将であったと伝えられる。シーザーのローマ軍に降伏したガリア人首領ウェルキンゲトリクスが、普通は懐柔策として元老院議員に推薦されたりするのだが、あまりに勇猛果敢であったために、後難を絶つ意味で処刑された故事とよく似た話である。
わずか10年でまたも平安京へ遷都する。桓武帝が実弟・早良親王の憤死の祟りを、現代では想像も付かぬほどに怖れたのは事実だろう。洪水被害は低地部では起こったが、丘陵地帯だったから全地域には及ばなかったろう。人口が集中する奈良盆地は物流の問題があった。それを回避するための長岡京遷都でもあった。しかし奈良盆地では経験したことのない大河・淀川系の洪水は、平野部分の冠水こそ少なかったが、物流を長期に亘って停止するような事態をもたらしたかも知れない。でもこの地は桓武帝母方の実家土師氏の本拠地である。桓武帝が土師氏の経験を全く知らなかったはずがない。仁藤先生は洪水による物流困難説のようだが、どうも私にはしっくりこない。
歴博常設展を半時間ほどで駆け足見学した。江戸時代の第3展示室が模様替えのために閉鎖されていた。リニューアル後のオープンは来春のようだった。

('07/11/07)