非線形科学

蔵本由紀:「非線形科学」、集英社新書、'07を読む。pV=nRTと書けば気体や溶液浸透圧の理想状態式であるとたいていの人は気が付く。気圧(浸透圧)pが分子濃度n/Vに比例する。つまり線形科学の領域。しかしそれは理想で、無限に濃度が低い場合以外は、濃度の二次三次さらに高次の補整項が必要だ。私がお世話になった高分子では、低分子量物質では十分希薄と見なされる濃度であっても、所謂第2ビリアル係数のお世話にならなければ科学的データにならない。現実の世界は非線形科学が支配するケースが殆どである。しかし個々には理解していても、非線形科学という概念で全体を統一的に把握したことはなかった。
多少意外だったのは、本書がエントロピー増大の法則から出発したことである。世の中自然の変化は不可逆だ。不可逆はエントロピー増大と同義語である。たとえ局所的にエントロピーの低い状態を作っても、そのために周囲のエントロピーは増加し、系全体のそれは増大している。統計熱力学が秩序とか構造との関係にエントロピーを掘り下げた。それでもエントロピーを定量的に扱える分野は少ない。だからか、宇宙の公理だと言っても信用しない人が私の周りにいた。筋肉を見よという。生命現象への応用など全くお手上げだ。グリコというキャラメルの箱に「グリコ1粒100m」と書かれていたことを思い出せる人は、かなりの年輩だろう。あれはグリコ1粒の発熱量全部が100m疾走の機械仕事に変わることを意味している。熱効率100%だ。一見公理に反するが、あれは生命維持に2000kcal/日もの無駄(?)を使っての話で、第一、100m走ってグルコ1粒を作ることは出来ない、不可逆なのだ。
不可逆の非線形科学現象を数式で記述できるケースはそう多くない。流動状態はそれが可能な貴重な存在だ。ナヴィエ・ストークスの式という。ニュートン流体に対するこの式はもう私が大学生の頃には確立していた。後々に知ったことだったが、式化には流体に制限がある。ニュートン流体以外ではビンガム流体だけが可能だ。微分方程式で与えられる。まず一般解は得られない。せめて一般解の匂いだけでも嗅ぎたいと無茶苦茶に条件の簡素化を行う。流体薄層に対する熱対流を扱うローレンツ・モデルに触れてある。3つの変数で非線形領域を、書きぶりから見ると多分フーリエ解析的に調べるとある。私は中身を一切知らないので何とも云えないが、理論物理の困難性だけはよく解った。温度差相当常数の値によって熱伝導、熱対流、カオス状態と相は3つに分かれる。熱対流からカオスに至る分岐点はコンピュータの数値解の助けが必要だった。
ベルーソフ・ジャポチンスキー反応が次の例である。靜置したシャーレの中で模様が描かれる特別の反応系で、定年も間近になってその解説を読み、均質一定化しない系があることに驚いた。色の付く物質が周期的に増えたり減ったりする落ち着かない反応だ。未だにその機構について議論があるという。振動子と興奮子から説明されている。最初の発見者ジャポンスキーは論文が認められず不幸だった。ルイセンコ学説が国定の遺伝理論になった国のことだ。酔っぱらいの千鳥足のような反応はソ連ではあり得なかったのではないか。私の邪推である。三つ目の例が、危ないバランスにある生態系。熊退治をすると鹿が異常繁殖して作物樹木の被害が甚大になるあれだ。正負のフィードバックにより説明された。
四つ目はチューリング・パターンで、もともとは純数学問題だったが、化学反応にもその例が出て注目されだした。キリンやシマウマや貝殻の美しいパターン模様が活性化物質と抑制物質の拡散速度が大きく異なる場合に出現するという。前者が非常に遅い。不均一なパターンが出現するときは、安定と不安定を分かつ臨界状態だ。緩やかに変化する自由度が、早く変化する自由度を隷属させるから、発展方程式はおそろしく簡単になる。縮約方程式である。ここまで話が進むと、浸透理論が自然と頭に浮かぶ。私は電気伝導のカタストロフィーを扱うためにそれを勉強した。高分子科学でお世話になったくりこみ群理論、フラクタル幾何学さらにスケーリング理論も形は異なるが浸透理論の親類だ。これらも非線形科学に組み込まれているのだと初めて悟った。今、アメリカはカリフォルニア州南部の山火事を消火できず、すでに東京23区よりも広い面積の森林を失ったと大騒ぎしている。あの森林火災も一種の臨界現象として扱えることを、スタウファー:「浸透理論の基礎」で見たことを思い出した。
キューリー点は、磁性と熱運動がせめぎ合っている臨界温度である。磁性はNS方向に全体を配列しようとするし、熱運動はそれを壊して無秩序にしようとする。温度を下げて行くと突然に対称性ランダム運動の自発的破れが起こって磁石になる。非線形科学ではバラバラに運動する振動子が集団振動に同期する現象として捉えている。生命現象には振動子の同期にモデル化できる現象がいくつもある。体内時計は視床下部にある視交叉上核という部位の、2万個ほどの時計細胞の同期によるリズムだそうだ。光と同期する。心拍の発生源は、洞房細胞という1万個ほどのペースメーカー細胞からなるリズム集団らしい。徳島の田舎であったか、木に停まった蛍の大集団が発光を同期させて大きく点滅する様をTVで見た覚えがある。理論には相互作用に関する平均力場近似が有効だ。だが平均力場の強さは未知のままに各振動子に与えられるのだから、その解は「自己無撞着条件」によることとなる。この言葉はずっと私を悩ませてきた。本書を読んでも今一分かった気にはなれなかった。
冷めた薄めのみそ汁を考える。味噌のおり(澱)は放置されると沈降するから、このみそ汁には目で見えるほどに濃度勾配が付いていて下ほど濃くなっている。ガス火に掛けて沸騰前にもなると澱は活発にランダムな運動を行う。乱流熱伝達だ。ローレンツ・モデルの熱伝導域、熱対流域はきっと存在するのだろうが、鍋に入れて加熱するような、厚い液層の急加熱では、あったとしても、その過程はたちまちに通り過ぎてしまいハッキリ認識できない。かなり注意して見たつもりだが、本書にはカオス域に対応するのが乱流熱伝達だとexplicitlyには書いてないようだ。理論上の現象が現実の物理現象の何に当たるかは明示して欲しいものだ。ちょっと古いが、竹山協三:「カオス−自然の乱れ方−」、ポピュラーサイエンス、裳華房、'91には指摘してある。乱流は工学屋には大変重要だ。流動、伝熱だけではなく物質拡散にも大切な概念である。だがローレンツ・カオスは私の卒業後何十年もあとの話だ。どれほどカオスの数学が工学に浸透したか一度若手に聞いてみたいと思う。本書は非線形科学の全貌を定性的ながら把握できるように描かれている。竹山先生の書はカオスに限定していくぶん厳密に解説している。私は順序が逆だったが、本書の次に竹山先生を読むと良い。
フーリエ変換された世界はまさに抽象の世界で、現実の物理現象に翻訳してイメージすることは出来ない。だがこの数学のお遊びから出てくる結論が現実の世界に対応していることだけは確かだ。カオスとは混沌で、素朴にはまるでめちゃくちゃという意味だ。だがローレンツ・カオスの振動する変数のピーク値間に、ある規則性があり、三次元状態空間図は2つの目玉を周回する不規則軌道を描くと聞くと、くりこみ理論とかフラクタル幾何学他との類似性に興味が走る。くりこみ理論などでは小さなランダムが拵える大きなランダムは互いに相似であると言っている。不規則の中に規則性があるというのだ。事実カオスの数学理論にはくりこみ群理論に基づくものがあると書いてある。ここまでのカオスは自由度を極端に切りつめた低次元カオスであった。現実は「そよ風」一つを取り上げても高次元カオスである。書かれてある通り、脳内神経ネットワークも観念的に大層複雑な高次元だと思える。高次元では、低次元のような、すぱっと割り切れるような結論はなかなか得られないとある。
臨界状態ではクラスターのマクロの集合状態はミクロの集合状態と自己相似性がある。自己相似性はベキ法則に通じる。キューリー点でのクラスターは同方向を示す原子磁化モーメントの塊だ。ミルクはエマルジョンだが、条件を操作すればある点で粒子が繋がってクリームになる。粒子の繋がりがクラスターだ。重合反応で反応率が上がると、ある点で溶解性のゾルが不溶固体のゲルに変わる。この場合は重合高分子がクラスターである。フラクタル幾何学ではフラクタル次元が対象とする問題の自己相似の特徴を示す。フラクタル次元は古典幾何学の次元と矛盾しない。フラクタル幾何学提唱者自身が例として示した海岸線長さの測定密度に伴うフラクタル性は有名だ。高分子の大きさに対して、直鎖と分岐鎖に異なるフラクタル次元が与えられている。小は原子分子の集合状態から大は大自然の地形まで、さらには太陽系銀河系を含む大宇宙にまで、ランダムの奥に潜む哲理を究明するのが、この非線形科学であるらしい。

('07/11/07)