ロシア領になる前のシベリア

護雅夫、神田信夫:「世界各国史12 北アジア史(新版)」、山川出版社、1981(以下A書という)と原暉之:「ウラジオストク物語」、三省堂、1998(以下B書)を市の図書館から借り出してきた。世界史を大学の受験課目としたが、ロシア領になる前の北アジア史、シベリア史が出題されることは「絶対」になかった。東洋史には中国史、朝鮮史との関連で断片的に出てくる程度ではなかったかと思う。昨年はペトロパブロフスク・カムチャッキーへ、今年はウラジオストクに寄港した。小学校か中学校の時代に読んだ「間宮林蔵」の黒竜江探検(1809年)談には下流川縁の町の風景が出ているが、ロシア人など出てこない。しかしその頃交易所を賑わせていた北アジア人は今は少数民族化し、ヨーロッパ系ロシア人が多数派になっている。ロシア化前の北アジアの日本との接点接線を重点に、一度真面目に読んでみようと思った次第である。
民族大移動といえばフン族に触発されたゲルマン民族のヨーロッパ席巻を指す。だが有史以前にはもっともっと大規模な移動があった。北方民族がシベリアからベーリング海峡を渡りアラスカを経てついにアメリカ大陸最南端の島にまで到達した。ゲルマン民族の大移動が世紀単位の話であるのに対し、こちらは万年単位のゆっくりした大移動である。その支流が氷河期で海面が下がって地続きであった津軽海峡を渡って、九州に達する。北九州の縄文人人骨から取り出されたミトコンドリアDNAは、なんとバイカル湖湖畔の先住民のそれと酷似していた。ミトコンドリアDNAは母から娘に伝えられる特殊な遺伝子である。これはNHKの「日本人はるかな旅」で知った知識だ。
篠田謙一氏による最新の情報はこのHPの「日本人になった祖先たち」に載せている。我々に北方民族の血が入っていることは間違いないらしい。ゲルマン人と同じく、北アジア人も農耕民族ではなかったから、定住型もあったらしいが概しては移動型であったのだろう。だからバイカル湖湖畔が本当の故郷だなんて考えて良いはずはない。だが我々が手足が短く、づんべらぼうの顔立ちなのは、極寒の地にあって体表面を体重に比してなるべく小さくするための遺伝子の選択であったとすると、なおさら北アジア人を勉強しようと思うではないか。
最近のNHKでサハリンの大農場が紹介された。経営者はロシア人だが、労働者は出稼ぎの中国人で、農場の粗末な営舎で集団生活をしている。経営者は今時月3万円でこんなに働く労働者はロシア人には見付からないとご満悦であった。ウラジオでも出稼ぎの中国人、朝鮮人が多い。仕事を取られると云う危機感からであろう、ロシアの若者の彼等を見る目は厳しく、観光の日本人が間違えられて殴られ、あとで謝られたというガサネタ記事を、インターネットで読んだことがある。朝鮮民族との摩擦は以前にもあった。スターリンが、日本近縁の敵性民族として、沿海州の朝鮮民族20万人を根こそぎ中央シベリアに集団移住させた歴史がある。その頃にはウラジオの出稼ぎ労働者は激減(B書:赤軍の占領から4年後で朝鮮人は7千弱)していたと云うから、この20万の大半はそれ以前からの居住者だ。
中央シベリアに強制移住させられた子孫の現状は、NHK番組にしばしば登場した。彼等はロシア語使用を強制されてきたが、母語を忘れていない。老人はハングル文字が読めるようだ。Wikipediaには沿海州に対する清朝の規制が弛んだ19世紀の頃、李氏朝鮮の圧制を逃れて移住した人々がいたと記してある。沿海州がロシア領となったのは1860年で、ロシア人はその年にウラジオに上陸し基地構築を始めている。古い時代に飛ぶが、A書の第1章の「シベリアの青銅器時代の文化」の図には、朝鮮半島から沿海州に掛けてセデミンスカヤ文化があったと描かれている。彼等の言語が何であったかは全く判らない。高句麗はツングース系だが北朝鮮まで領有した。沿海州まで版図が及んでいたかどうか微妙だ。新羅、高麗もやぱり鴨緑江までのようだ。B書には沿海州のツングースは載っているが、朝鮮民族の存在には全く触れられていない。
カムチャッカ半島東岸のカムチャッキーの自由市場に、我々と似た顔立ちの人がごく少数だったが店を出していた。千島アイヌがロシア人毛皮商人に追い立てられて島伝いに北海道側に逃げ、日本側の色丹島に収容されるに至る様子は、小坂洋右:「流亡・日露に追われた北千島アイヌ」に記述されていた。北千島は今は無人島列島である。自由市場のアジア人は先住民だったらイテルメン(カムチャダール)とかコリヤークと呼ばれている人たちであったのだろう。彼等とてアイヌと同じ立場だったが、懐の深い土地に住んでいたから生き延びたというのが実態だろう。船上で見せてくれた民族舞踊の一つは、アイヌの祭りとは全く異なる先住民の踊りだった。ダンサ−の殆どはロシア民族の顔立ちだったが、1-2人が東洋系だった。
バイカル湖湖畔は、伝承によれば、太古にはヤクートが農耕と牧畜を営んでいた土地で、文字を使用し土器と鉄の文化を持っていた。文字や農耕は北方に逃れるときに失ったという。最北のトルコ語族で、北シベリアでは文化水準、人口共に重要な地位にあったという。全般としてはほぼ石器時代の生活であった時代に、突出して文化的であったと云える。この地は現在はブリヤート共和国に属する。ブリヤートはモンゴル語族だ。篠田氏は、現代日本人のDNAから、バイカル湖湖畔狩猟民の血は、「日本人はるかな旅」の北海道周りよりも、朝鮮半島よりの渡来人から多く来ているとしている。北九州と朝鮮半島のあいだに縄文時代から人の交流があったこともハッキリした。
どちらのルートでも中間にツングース帯がある。遺伝子的にブリヤードと我々をどう結びつけるのか、深い研究はないようだ。我々の言語はモンゴル語系ともツングース語系とも云えるらしい。ブリヤート語もツングース語も今では急速に話せる人口が減少し、高齢者が辺境地で操る程度に落ち込んでいるという。ブリヤートの宗教はラマ教だったが、ソ連時代の破壊粛清でラマ教寺院はわずかに1寺となり、文字もモンゴル文字からロシア文字に変えられ、モンゴル的文化の消滅が計られた。今は人口もロシア人がマジョリティを占めるようになった。
A書の末尾に大黒屋光太夫が載っている。映画にもなった井上靖:「おろしあ国酔夢譚」の主人公だ。彼の漂着地点、アリューシャン列島アムチトカ島にはアレウト族が住んでいた。彼等は最北の民エスキモーと近い言語を話した。彼等は19世紀初めで総人口1.5-2.5万だったという。大正、昭和初期に蟹工船が活躍したオーツク海沿岸にはアイヌ、イテルメン、コリヤーク、エベン、エベンキがいた。

('07/10/04)