麦死なず

横手に旅行したとき、石坂洋次郎文学記念館を訪れた。そこで掲題の中編小説を買った。著者自ら代表作と称する小説である。石坂の作品では「若い人」「青い山脈」などの青春小説が有名だからその範疇にあるのかと思っていたが、想像とは全く異なり、奥方を挟んだ三角関係のジリジリした私小説である。表題は冒頭にヨハネ伝から取ったと書いてある。思わせぶりな表題だが、最後まで読んでも、なぜこれを選んだのか判らなかった。救いは、私が生を受ける前夜のころの、時代の思想背景が浮かび上がるように描かれている点だ。特高、闘士、アジト、オルグ、三・一五、一斉検挙、獄内闘争、ブルジョア、プチ・ブル、階級恋愛そして史的唯物論。懐かしい単語が飛び交う。
今ではもう死語と思われる難しい漢語が頻繁に使われている。作者は父の年代の人ゆえ前後の文言と文字の形から何とか意味を推測できるが、私の次の世代は読み通すのは苦労だろう。例えば澎湃、剔抉、霄壌などすぐには何の意味か判らない。幸いなことに、難しい漢語には全部フリガナがしてあって、字は忘れても音で覚えている場合に助かる。コキューとは戦後のフランスかぶれが使いだした言葉かと思っていたが、昭和11年のこの小説に出ているので驚いた。「妻を寝取られた男」という意味で、原田康子原作の映画「挽歌」の中の台詞として聞いたのが初めてであった。主人公の五十嵐はそのコキューなのである。麦死なずなどと行い澄ました宗教家のような言葉より、よほどこの小説の表題に向いていると思った。
作者は弘前の出身で、横手の女学校中学校に長年奉職した。文中に出てくる当時の文学者、主義者を問わない東京への憧れ、地方在住のあせりは、今日の地方の沈滞、都会との格差拡大に通じる遠因として心に引っ掛かる。私は地方の人材流出が今日を生んだ一番の理由と思っている。今ではあらゆる分野で枯渇状態に近づいていて、中央の鼻息にばかり気を取られている。今月の読売新聞であったか、堺屋太一氏が、日本のように地方との格差が開いてゆく先進国はないという発言をしていた。真田信治:「方言は気持ちを伝える」、岩波ジュニア新書、'07の図4.1はヨーロッパに日本を重ねた地図になっている。日本はスエーデンからスペインまでカバーする細大国だ。異常な一極集中は人為的に排除できる性質のものだ。
今日とは比較にならないほど厳格であった公序良俗の時代にあって、五十嵐夫人アキの行動は、女学生時代から新聞だねとなった娼婦的好色性と29歳という女盛りの年齢を考慮に入れても、まさに破天荒で、私の何十年の見聞の中にも全くの稀にしか出てこない性質のものだ。小学生の長男以下全3人の子供と夫を残し、主義に殉じると称して東京に走る。アキに共産主義を吹き込み、肉体に近づいた党員作家・牧野を追っかけての家出であった。共産主義が時のインテリ層に与えた影響は、今日では想像できないほど大きかったと云う解説は本当らしい。NHK TVドラマ「おしん」でおしんが思春期に入り、農民運動家に好意を持つ挿話がある。あれもこの時代を映している。
国内はまだ幼稚な資本主義段階で、産業界にマイナスの面が噴出する一方、ロシア革命が成功を収めていた。戦後の混乱期に、日本の大学経済学部の教授は半分がマル経派だと云われた。混沌とした時代に、何か太い1本の単純明快な論理を唱え、全体が把握できたような錯覚を与える「神」が出現すると、神が宗教であれ主義であれ、大方の弱い人間はそれに靡きたがるものだ。アキは自分の身体の処理にこの理論を適用し行動の正統性に納得し、主義者たちはそれを利用した。高邁な議論はしても所詮人間はどろどろした性欲や利害打算から逃げられないことを、主義者たちの身勝手な階級精神的行動から暴いてゆく。
牧野は左翼文学者として名を挙げ、アキの入籍を階級精神に相応しくないと断ったはずなのに、別の娘と結婚し、党活動から転向してゆく。鍋山貞親の転向声明の頃と云うから昭和の8-9年頃の話と思われる。アキの浮気行動は終わらなかった。しかしどうやら終息に向かったようで、書き出しあたりのアキの思い切りの良い正当化の啖呵に比べると、離婚を思いとどまるように哀願する彼女の言葉はさすがに弱々しくなっている。石坂洋次郎は、左翼運動を担った人々の惨めな撤退ぶりを決して冷笑していない。脱出口も逃げ場もない日本、黄色人種など引き受け手のない欧米人支配の世界にあって、まずは命を繋ごうとした彼等を、小説にあるほどの痛手を与えられながらも、公正に見ようとしているのには感服させられる。実在人物として出てくるのは、鍋山以外では小林多喜二だけだ。牧野が実際は誰で、その後、あるいは当時の著作がどんなものなのかには興味があるが、全く判らない。

('07/08/21)