初めての横手

横手川の河底は泥岩砂岩となにやら硬い岩石が層状に重なっているようで、宮崎の海岸ほどにはスケールは大きくないが、洗濯板状に削られた跡がある。上の橋を渡ると旧羽黒町の武家屋敷跡だ。家屋は多分全部お侍が住んだころとは建て換わっていて、その時代の建家が残る角館のような雰囲気ではない。でも区画や植樹あるいは生け垣、板塀に名残を留めている。敷地はとっても広く、1軒が今の高級住宅街の2-4軒分にあたる。更地が売りに出されていた。坪14万円ほどだった。
植木には桜(シダレザクラは気付かなかった)、赤松、杉、、欅、樅、一位、柿、栃、モクレン科の木、犬槙。生け垣の木は思い出せない。ザクロが花を付けていた。文学館あたりも武家屋敷であったのだが、もう区画がかなり壊れ掛かっている。文学館の庭にヌルデがあったのは印象的だった。私は植物園以外にこの木を見たことがない。横手川土手に羽黒の柳がある。樹齢が何百年にもなるそうで、もともとお屋敷の境界を示すためにあったのだそうだ。どこだったか、ネムノキを見たが、千葉と違ってまだ花を咲かせていなかった。
チャーチルというお雇い英語教師(横手中学)のために立てた旧日新館が丘の中腹にある。木造洋館で、住人がいるため中の見学は出来ない。附近では病院建設が進行中であった。横手市内で目に付く建築物は公共の建物を除けば医療関係が多い。
横手公園登山口より雨の急坂を上る。天守状の展望台から町を一望。小野寺氏の居城であったが、関ヶ原の戦いで味方しなかったため徳川に領地を没収された。そのあとここは最上氏ついで佐竹氏の支城となった。一国一城令の例外として破壊を免れた。2Fに昔の俯瞰図、地図がある。天守閣様のものは描かれていなかった。土塁の城。観音寺鐘楼を経て石坂洋次郎文学記念館に至る。
個人住宅を買い取って記念館としたという。武家屋敷跡の一つで敷地は広い。本降りになってちょっと歩くのに難儀する。「若い人」「青い山脈」「石坂先生行状記」などの映画ポスターに往年の名優を偲ぶ。前2作は見ている。「若い人」は裕次郎と小百合、「青い山脈」は原節子の1作目とリメークの小百合主演ものであった。たしかに激しく変化する社会通念の最中の一瞬を切り取った新鮮な画像であった。ビデオで石坂洋次郎が計13年初め女学校、3年のちに中学校に奉職したことを知った。石坂が自ら代表作という「麦死なず」の文庫本をそこで買う。私小説らしい。
横手川がこの位置で大きく曲がる。蛇の崎橋という謂われは、ここらの崎には蛇が多く住んでいたからかしら。橋の前の道を真っ直ぐに行くと市役所があり、隣がかまくら館。ここら辺は昔の'87年のガイドブックの地理とはがらっと変わっている。洋次郎の定宿平源が今もあってその位置から確かめた。市役所自体が移転し、大道路が十文字に走り、上記の蛇の崎橋は大きくなった寺町通りの先に付け替えられた。最初は橋を基準に考えたから寺が移転したのかと思った。かまくら館の脇に農業用水路に掛かっていたコンクリート橋の遺構が残っていて、その説明文に附近の昔を説明してあった。そこらは花柳街飲屋街で橋は不幸橋とも云われたとある。飲み屋は今でもちょっと町の規模には不相応と思えるほどに軒を連ねている。城で見た昔の地図には寺町ではお寺が隙間無く並んでいるのだが、現在は隙間があって民家が侵入している。廃寺あるいは移転それとも敷地の切り売りであったか、皮膚科医院があるのは土地に相応しい。
かまくら館で実物大のかまくらを見る。-10℃に保って融解を防いでいる。中には水神様が祀ってある。豪雪地帯であればこその行事だ。横手名物が焼きそばだとビデオが説明するので、店で聞いて、隣の「ゆう」という店に昼飯に出掛けた。500円の野菜焼きそばにした。名物という理由がよく解らなかった。平正寺は墓が溢れているという印象。仁王像が本堂の上がり段左右に囲いもなしに置いてある。光明寺は、多分先述の大道路建設期に敷地と引き替えであったのだろう、立派な寺院建築だ。その道は'87年の本にはなく、真っ直ぐ鉄路を跨いでいた。この地も町名変更が多い。昔のままは鍛治町。
横手見物に4-5時間を費やした。ホテルのフロントでは「秋田ふるさと村」をも勧められたのだが、あいにくの雨で行く気を失い帰途についた。横手は米沢同様、区画割りのしっかりした道路幅の広い落ち着いた雰囲気の町であった。

('07/07/09)