大人の休日「中東北」の旅
- 7/1-3の3日間で米沢から横手へ旅した。大人の休日倶楽部会員パス12000円による一人旅であった。それぞれに一泊した。当初は北陸の旅の筈であったが、パス発売期間の天気予報は芳しくないままに経過したので、旅先を中東北に変更した。そのコースも、ぎりぎりまで予報と睨めっこをしながら決めたのに、出立日あたりから天候が悪い方へ変わり始め、第2日の中頃からは小雨霧雨に、第3日は本格的な雨になった。梅雨時の天気予報はあてにならない。
- 初めから標準軌の東北新幹線から分かれて走る山形新幹線と秋田新幹線は、在来線と共用のレールを走る。規格の違う電車をどうやって走らせるのか。いつも車窓や乗り換えに気を取られて、しっかり実証的比較をしたことはない。だから判っているつもりでも所謂状況証拠だけだから確信は持てなかった。山形新幹線終着駅の新庄と、秋田新幹線と在来線である奥羽本線の接続駅大曲に下り立ってやっと得心できた。新幹線はどちらも標準軌、在来線のうち福島から新庄までの奥羽本線が標準軌、新庄から秋田までが狭軌、大曲から盛岡までの田沢湖線が標準軌である。大曲から秋田までが、だから、見かけ上複線で、その実は狭軌と標準軌が単線運転されている。大曲から盛岡までは単線、福島から大曲まではところどころ複線区間のある基本は単線の区間である。狭軌時代の駅がそのまま使われているから新幹線の列車幅は狭く、車内客席は1並び4席だ。最高何km/hなのだろう、遅い。大曲ではこまちがスイッチバックする。新庄から大曲までの新幹線延長をと言う立て看板があったが、便利さだけから云うと無理からぬ話だ。
- 米沢、横手見聞記は別途に記すとして、その他の路線風景などについて書いておく。山形では霞城セントラルの24F展望台に上がってみた。山形城(霞城)祉を一望できる。駅の西側が開発されて風景が一変した。このセントラルという高層ビルも二昔前に訪れたときにはなかった。名物のサクランボが駅のいたるところで売られていた。箱単位だから旅中のおやつには向かない。一箱8千円ぐらいもあった。新庄では秋田行きの鈍行まで45分あり、駅舎を見物する。瀟洒な建物だ。今回は祭りの山車が展示されていた。駅周辺にカツラの植木が目立つ。それからキンシバイの黄色い花。新庄からの車窓にはクリとオニグルミが目立つ。クリは丁度花の時期だから遠目でも他のブナ科の植物とは区別が付く。袋を被せたのはリンゴか。トチノキも多い。ホオノキかも知れない。街道に沿って山地以外はほぼ切れ目無く民家があり、中東北も賑やかである。横手まではワンマンカー。温泉と名の付く駅がところどころ出てくる。日本は温泉天国である。高校生が乗ったり下りたり。自然に恵まれているが通学には不便だろう。本線でも便数は少ない。川の水量が増加した。釣り人も何人か見た。
- NHK秋田地方テレビで院内銀山の話をしていた。新庄からの鈍行の車窓から、院内駅に沿って赤煉瓦の銀山資料館が見えたことを思い出した。廃鉱前にこの地で死んだ1000人分の埋もれた墓が見直され整備されつつある。年間に訪れる人は4000人と言った話であった。石見銀山が世界遺産に登録されたのに刺激されて流されたニュースだったのだろう。別子銅山もそうであったが、山中の鉱夫町は仕事が消えるとたちまちゴーストタウンになり、廃屋はやがて無くなってしまう。歴史は文字だけでは淋しい、形で残したいものである。
- 旅を通しての感想を纏めておく。一つは地名に関する問題。米沢では酒造資料館に面している通りの新旧対比表示杭があった。昔は武具製造職人など、税金を免除(御免許)されていた職人の住む町だから、免許町通りと言ったそうだ。他でもちょくちょくこの手の杭にお目に掛かった。片五十騎町など残って欲しい地名だ。どうして簡単に昔の地名を捨ててしまうのか私には不思議でならない。これは次の訪問先横手でも感じた。寺町、羽黒町。寺町は米沢でも消えて無くなった。寺があれだけ残っているのに、なぜ変えねばならなかったのか。木造建築の悲しさで、大火で簡単に形あるものは消える、だからこそ余計に歴史を名前に残さねばならないのではないか。産業という観点から見ても、これらの町々の観光のウエイトはそう低くないと思う。京都は変更された地名を見つける方が困難だ。こちらでは残った地名を見つける方が困難だ。
- もう一つは戊辰戦争の傷跡。招魂碑と聞くと普通は対外戦役の死者を弔うものと感じるが、上杉神社脇のそれは戊辰戦争の犠牲者の碑であった。竜泉寺には、戊辰戦争のおり会津藩から援軍要請に赴いたが、役目を果たせず自決した使者の墓があると知った。「神々に誓って使者に立ったが、目的を果たさずなんで故郷に帰れようか」という意味の辞世の句が書き添えられていた。横手城は、戊辰戦役で秋田藩は勤王方だったために周辺の佐幕の東北藩に攻められ、落城。21人が戦死、城の建造物全部と町の1/3は消失した。九州で西南戦役の遺跡を見るのと同様なのだが、維新が残した傷跡はけっして浅くないことを改めて思わせられる。
('07/07/09)