新しい薬をどう創るか

京大院薬学研究科編:「新しい薬をどう創るか−創薬研究の最前線−」、講談社BLUE BACKS、'07を読む。来年の私立大学薬学系の学生募集共同広告が出たばかりだった。共同薬科大学が慶応大に吸収合併される。関西では同志社女子大に薬学のコースが出来、立命館大にもそのコースが既設されている。修学年も薬剤師コースは6年とお医者さん並みに長くなっている。先月末、頭痛薬バファリンの商標権をライオンが304億円を投じて取得するという記事を目にした。薬剤の世界も確実に変化している。理化学の学術分野で、今最も華やかなのは生命科学と言って良いであろう。
今のバファリンは何種類もあって全部が全部そうではなくなったが、昔はアスピリンがその主成分であった。アスピリンはアセチルサルチル酸で、サルチル酸自身にも鎮痛効果があり、先に発見されたから、しばらくはそれが鎮痛薬として通用した。でもサルチル酸には腐食作用がある。私はいつだったか、水虫薬に、サルチル酸が入れてあるのを見つけて、薬の不思議に驚いたことがあった。皮膚を剥がすためにであったのだろう。アセチル化でこの作用がおさわり、胃に優しい薬になった。類似の話がもう1例載っている。三共発見の高脂血症薬だ。殺虫剤にも似た話を思い出す。戦後アメリカが持ち込んだパラチオンは人畜有害なため厳重な使用制限があり、逆に殺人事件に利用されたりした。その化学構造の骨格は変えずに、装飾基を取り替えたり増やしたりして生まれたスミチオンは、人畜無害のWHOお墨付きの農薬として世界を制覇した。化け学は薬をも化けさす。
筑波山麓からは、臓器移植における拒絶反応を防ぐ薬が開発された。この世界初の薬は藤沢薬品により筑波山で集めた菌の培養によってもたらされた。あの膏薬売りの口上を私は京都河原町の空き地で見た。私は血を見るのが大嫌いで、だから折角医学部に入ったのに工学部へ転学部してしまったのであったが、日本刀で腕に傷を入れる実演を、つい目を瞑ってしまって見逃した。引退後マジシャンの素晴らしい芸を見る機会が何回かあった。ひょっとして河原町の実演もその類ではなかったかと懐かしく思い出す。
「下手な鉄砲も数撃てば当たる」で、ランダムスクリーニング(多目的スクリーニング)により、当初の目的以外の薬理活性が見つけられるようになった。検査に必要な化合物の量もどんどん少なくなって数ミリグラム程度でやれるという。田辺製薬の狭心症治療薬ジルチアゼムの開発がその例という。アレルギーに対する抗ヒスタミン剤はお馴染みだが、ヒスタミンに胃酸分泌刺激作用があるにもかかわらず、その方の薬効はさっぱりない。別種のヒスタミン受容体が胃にあるのではないかという仮説の下に抗胃潰瘍薬が開発された。ドラッグデザインの走りである。近頃は新薬創出の新しいコンセプトがいろいろ生まれている。固相合成、人工酵素。鏡像異性体の片方しか薬効を持たないことは、私は蚊取り線香の菊酸で遠の昔に知っていたが、人工酵素触媒による合成では一方だけを作り出すことが出来る。
「門前の小僧、習わぬ経を読む」で、私は実際に携わったことはないが、化学会社の研究室にいたため、X線結晶構造解析には馴染みがあった。すでにシンクロトン放射光の利用も盛んになりつつあったし、中性子散乱の利用も進んでいた。薬のターゲットタンパク質の解析を説明する章はよくこなれた内容で、原理から最先端技術まで、また研究上もっとも困難な単結晶を取り出す操作まで、手短に話してくれる。啓蒙書はかくあるべしと云う見本のような書きぶりだ。水素原子が見えるようになり、結晶状態で行われる化学反応を始めから終わりまで連続で観察したり、寿命の短い反応中間状態をも捕らえたり、お道具の進歩には目を見張らさられる。私が現役であった頃は、何がネックであったかは忘れたが、大きな高分子は解析困難だった。今ではそれもお茶の子らしい。残されたタンパク質の立体構造解析は、細胞、細胞内小器官を包む膜を構成するタンパク質である。最近の20年間に3度もノーベル化学賞がその研究に授与されている。現在疾患の標的になっているタンパク質の半数以上が膜タンパク質である。
最新のスクリーニング法に、バーチャルスクリーニング(VS)がある。実際の化合物を使わず、コンピュータの中で組み立てた仮想の化合物を使う。薬物と標的タンパク質の結合シミュレーションで親和性の強さ(≒薬理活性の強さ)を判定し、強さの順に並べ、トップからの50-100種について実際化合物で薬効確認する。精度や信頼度には問題はあるが、ヒット化合物を取り出すコストが1/1000以下で経済的でありかつ早い。最後は実化合物による実験だから、大製薬会社ともなれば1000万種もの合成経路を確立した純品を揃えている。膜タンパク質のように三次元構造が不明の標的でもやや低能率ながらコンピュータが活躍する。活性に必要な化学構造のグループ(ファーマコフォア)を諸情報から定義して、それに見合う薬物化合物を化合物ライブラリーから選択する。コンピュータに自力で活性化合物をデザインさせようとする試みも進んでいるとか。チンパンジーと決別して以来数百万年の間にトライアル&エラーでコツコツと集積した生薬の知識を、現代科学は正に一瞬に凌駕した。考えてみれば何か末恐ろしい話でもある。
ホスピスの末期ガン患者はモルヒネで疼痛を抑えながら死を迎える。TVで家族に囲まれた笑顔の患者を見たが、最後まであんな状態で行けるなら正に理想的な死に様だと思わせた。モルヒネはだんだん効かなくなり、投薬量が増加する。薬理学はそのメカニズムを明らかにする。痛みを神経細胞から神経細胞に伝えるカルシウムイオンの放出チャンネルを、受容体を通じて間接に抑えるのだ。耐性も依存性も開明された。受容体を介したもともと分離不可能な副作用なのである。イオンチャンネルの膜輸送タンパク質が研究の遅れから解明が進んでいないため、その分野に逆にゲノム創薬の可能性が高いことを指摘している。
10何年か前、エイズがアフリカの奥地から突然全世界に広まり、フリーセックスの国家では民族絶滅の危機とまで云われた。今まで地域に閉じこめられていたウィルス性の病気が文明開化に乗って世界に蔓延する。今も動植物の新種が発見される地域ほど、そんな危険性が高い。中国南方山間部などその悪い例だ。鳥インフルエンザがいつ人を宿主とするようになるかは、時間の問題だと騒がれている。ウィルスと宿主の関係がエイズとリンパ球を例にして説明されている。エイズ表面糖タンパク質のgp120が、免疫細胞リンパ球に特徴的な表面タンパク質CD4に選択吸着する。もう一つの表面糖タンパク質gp41はリンパ球細胞膜をこじ開け、あとは宿主細胞の力を借りて宿主が死ぬまで自らを増殖する。その長いステップが、一部不透明な部分があるものの、分子レベルで説明してある。エイズの増殖を止めるには、そのどこか一ヶ所でいいから、連鎖を止めればいい。エイズは忍者ウィルスで、従前のワクチン療法など歯が立たない。だから私が教えた頃は非常に悲観的であった治療法が、最近にいたって次々に編み出されている背景の説明は、著者らが携わっているだけに迫力があり、まことに見事である。
いろは歌留多に「阿呆につける薬がない」と出ている。痴呆症(なぜだか今は認知症という、私は痴呆症の方が意味がハッキリしていいと思うのだが)に対するこの常識が破られて行く。記憶とはPCのHDのように静的に貯められるものではなく、脳神経細胞の閉回路を刺激が半永久運動することによると聞いたことがある。この「半」永久がくせ者で、神経と神経の伝達物質アセチルコリンが減少すると記憶が途絶える。その分解酵素の阻害剤である世界最初のアルツハイマー症治療薬は20年かけてこの大学から生まれた。だが、商品化はアメリカが素早かった。日本では臨床試験に10年掛かったのに、後発のアメリカは5年でFDA認可に漕ぎ着けた。
四六のガマが四面鏡の箱に入れられて、おのが姿に驚き、タラーリタラーリと流す脂汗を集めて精製したのが筑波山のガマの脂膏薬だと云う口上は、実は真っ赤なウソだそうだ。だがウソは真実を秘めていた。カエルの皮膚から画期的な抗菌性ペプチドが発見され、実用化に進みつつある。ワクチンなどと違う先天性免疫の応用で、院内感染などで社会問題になっているMRSAなど従来の抗生物質が効かなくなった菌にも効果を発揮する。細菌の細胞膜に特異的に取り憑き穴をこじ開けて死滅させるメカニズムを、筆者らの研究を織り交ぜて解説する。中には細菌のDNAの働きを停めてしまうペプチドもあるという。抗生物質は低分子量有機化合物で菌に対抗策(耐性)を作られやすいが、ペプチドは少なくとも分子量が1桁は高く、膜の本質に関わる効果メカニズムを持つから、おそらくなかなか耐性を持つ菌は出てこないのではないかと私は想像する。
この大学の先生が講演に来られて、病巣に選択的に薬を届けるドラッグデリベリーシステムDDSの話をなさった。10年以上昔の話だ。私は感心して聞いていたが、微小カプセルに薬を入れて運ぶというので、身体の免疫機構が異物のカプセルを排除するのを防ぐ方法を質問した覚えがある。DDSは100年も昔、エーリッヒによって提案されながら、近年になってやっと実用化しだした。ガン細胞は特有の抗原性を持っているから、それに合う抗体に破壊薬を運ばせるのが、ミサイル型だ。ガン組織が正常臓器と違ってブヨブヨで前者が3nmの隙間なら、後者はなんと400nmもある。低分子の抗ガン剤は正常細胞に働くとガン細胞に対すると同じ殺傷力を発揮するから、正常細胞をよけて通らねばならぬ。そのために隙間間隔の差を利用する。正常細胞に見付からぬように輸送されるから、ステルス戦闘機型だと書いてある。インターフェロンにPEG(ポリエチレングリコール)を結合させたDDSがC型肝炎ウィルス感染者の治癒に用いられる。インターフェロンはバイオ医薬で、大きな発酵タンクにより遺伝子組み替え菌で培養されている現場を、もう10年以上昔に見学したことがある。インターフェロンは分子量3万程度のタンパク質で、容易に腎臓から排出され効率が悪いが、分子量が大きいDDSは尿に逃げないため、長期にわたり血中濃度を維持できる。
'03年にヒトノゲム計画が完了し、ポストゲノムの段階に入った。各個人の塩基配列にはほんの僅かながら違いがあって、遺伝子多型が精密に把握できるようになった。従前の創薬は平均的人間を対象にしたが、投薬に対する個人差はアルコール体質を見るまでもなく現に厳しく存在する。アメリカの驚くべき統計が示されている。全米の死因第4位が処方箋の(個人的不適切による)副作用というのである。ゲノム情報を用いたテーラーメイド医療が始まる。まだ端緒についたばかりという印象であるが、この最終章に至るまでの豊富な具体例と解説は単なる夢物語でないと確信させてくれる。
近年稀に見る良書として、推奨できる本であった。

('07/07/19)