山梨県立博物館
- 大人の休日倶楽部会員・1日乗り放題パスを利用して、石和(いさわ)温泉の山梨県立博物館に行った。2年前に完成した博物館である。館員30人内学術研究員12人という事だった。広い敷地の中央に平屋建ての博物館がある。目に付く位置の植裁に竹林がある。庭園にオオデマリとヒメシャラの花を見た。どちらも初めて見る花であった。後者はナツツバキの親類だから時節としては早すぎる。まだ幼木だった。何かと間違えているのかも知れないとも思ったが、葉はまだ花を付けていない後方の名札付きの中高木と似ていた。
- 先にNHK大河ドラマ風林火山特別展「信玄・謙信、そして伝説の軍師」を見た。常設展は全老人無料だが、特別展に関しては県外老人からは一般人並みの入場料を取った。入口に「山本菅助」の名が記された唯一の古文書−市河文書−が展示されていた。釧路市指定文化財の武田晴信書状である。花押がある。花押が署名でなく印章であると知った。市河家は明治時代に屯田兵となって北海道に渡った。だから釧路にある。解説文では、これはNHK「風林火山」の台詞にもあったと思うが、勘助は晴信に200貫という破格(倍)の初任給で雇われている。聞いたら現在価格で700万円ほどだという。
- 戦国期の甲斐における貨幣単位と江戸期のそれが同じで、1両=4貫とすると1両=14万円ほどだ。貨幣価値は後世ほど下がるが、江戸後期の安定相場が10万円ほどと思うので、まずは妥当な換算値かと思った。これで足軽14人を雇う。すると足軽は10貫=35万円ほどの年俸だ。江戸期の下級武士「サンピン(三一)」は3両1人扶持で、扶持米は1日5合だ。今は1kg=0.65升=400円。すると給与の現在価格は41万円ほどだ。ただし家賃は長屋住まいながらただである。
- 視覚に訴えるような展示品はあまりない。上杉家は江戸時代を外様大名として生き続けたからまだ歴史資産を後世に伝えているが、滅亡した武田家のそれには嫡流のものはなく、市河文書のような書簡とか社寺への寄贈品に限られる。信玄・謙信と言えば川中島合戦であるからであろう、後半はその展示に力を入れてある。NHKの解説ビデオはなかなかの出来映えで、ドラマ「風林火山」の山場の概略を頭に入れるのに役立つ。でも私には殆ど目新しい知識はなかった。このビデオでは軍略としては上杉謙信に軍配を挙げていた。江戸期に幅を利かした甲州流軍学は甲陽軍鑑がバイブルだ。軍鑑は、成立には謎がいくつもあるにせよ、信玄・勝頼二代の武田の軍略を滅亡後そう遠くない年代に書かれている。対抗して上杉には越後流軍学があるという。
- 信濃の攻防に善光寺の信仰が大きな影響力を持っていた。この点は認識を新たにした。信玄も謙信も信者の取り込みに腐心している。信玄は信濃の善光寺から本尊を持ち去り、甲斐(甲府)善光寺の本尊にした。信濃のと同規模の壮大な伽藍であったらしいが、一度消失し江戸期にやや規模を小さくして再建されているという。謙信も仏具他を持ち帰っている。「人は城、人は石垣、人は堀、・・」と信玄は云ったが、居館の躑躅ヶ崎館は壮大ではないにせよ城郭である。後方の山に緊急避難用の要害城があったことは初めて知った。上杉方武将の居城の一つであった村上要害模型が展示してあった。村上市は雅子妃のお里・小和田家の本籍地である。一度観光旅行に出掛けている。登らなかったが、山城があることは知っていた。特別展に展示する以上はその戦国期の模型であろう。謙信の本拠の春日山城も山城だ。甲信越の乱世の居館は防衛第一に考えて峻険な山を頼ることが多かったのであろう。川中島近辺に足がかりとなる防塁を持たなかった謙信が、合戦前に妻女山に布陣したのは、あるいは生活環境から来る本能的選択であったのかも知れない。
- 今まであちこちで見た県立博物館と比較して、山梨県のは常設展の面積が小さいように思った。体験型展示の一番奥に風土病撲滅の歴史をパネル展示していた。岡山とか九州にもあったそうだが、山梨には非常に多く、山梨病とも云われた地方病である。日本住血吸虫と言う寄生虫が原因である。この成虫は、人間ほかの哺乳動物(宿主)の、小腸から肝臓へと向かう門脈という血管の中に住み、宿主の赤血球を食べて生活するという。体外に排出された卵が、一旦ミヤイリガイという1cmほどの巻き貝を中間宿主として生育し、皮膚経由で人の体内に侵入する。ミヤイリガイの駆除には、蛍も死滅させたが、進駐軍の農薬が成果を上げたという。この風土病は日本では駆逐されたが、世界には未だあちこちに残っているという。「死体解剖御願」というパネルは、重篤の女性が死因解明のために死後自分を解剖してくれと願い出た願書の説明である。
- 木簡が展示されている。甲斐から都に出た労働者が年600文を貰ったとあった。奈良時代である。価値は見当が付かない。少しは解説して欲しい。富士川が駿河と甲州を結ぶ物流の動脈であったとは知らなかった。難所が3ヶ所ある。そのあたりには遭難者の碑がいくつも見かけられると云う。ローレライはライン河の遭難を歌っているが、富士川に比べれば大陸の川ははるかに緩やかに流れるから、歌にあるように魔性の女に魅入られなければ無事だったはずだ。残っている転覆のスケッチは稚拙なだけによけい生々しい。江戸時代には幕府の米倉から年貢米を積み出した。蔵や舟の模型がある。高瀬舟は小舟である。河船による運搬事業は昭和の初めごろまでは生きていた。
- 武田の軍用金で名高い金鉱山の鉱夫たちも出ている。採掘鉱石を砕き、炭火の高温で鉛合金として取り出す精錬法であったらしい。道祖神祭の模型と道路の両側に並べられる幕絵のレプリカを見た。そもそもこの博物館を知ったのは、新聞に幕絵の記事を見つけたからであった。歌川広重の肉筆という。東都名所・目黒不動之滝を描いている。道祖神祭はもう甲府では廃れているが、地方には生き残っていて、執り行われているところもあると聞いた。里のくらしを模型で見せている。村境に魔性(狐狸)の女が姿を現しているところ、細い村道を進む旅芸人たち、遊ぶ子どもと働く大人など江戸時代の村落の風景が描かれている。甲州が綿とタバコの産地であったとは知らなかった。里の模型では大人も子どももタバコをよく吸っていたとある。
- こぢんまりとした資料閲覧室には甲州関連の書籍が詰まっていた。最後にミュージアムショップ、レストランを覗いて帰途についた。石和温泉駅前のSATYでおみやげを買った。ほうとう、野沢菜、信玄餅と定番の3点である。
- 庭園拝見も含めて実質は3時間弱の見学だった。千葉を朝9:25の成田エクスプレス6号で発ち、新宿であずさ13号に乗り換え12:01に石和温泉に着いた。バスを探すと駅前に待機している。だが博物館行きはもう出たあとで、次は小1時間ほど待たねばならぬ。博物館のHPには、便が結構多いように記載されていたように思ったが、運行を中止したのだろうと思いタクシーにした。戻ってからHPをよく見ると、石和温泉駅入口という別のバス停があり、駅前までは来ないバス便があると知った。そのバス停は駅前広場から100mほどの位置で、駅からだと信号で2つ目であった。これは戻りのバスで知った事実だ。タクシーは8分程度であった。戻りのかいじ116号には車両前方に小さいラウンジがあった。成田エクスプレス6号は照明、空気吹き出し孔、荷物戸棚などが航空機仕様で、席の間隔も外人を意識しているのか広めに取ってある。ただ座席のリクライニングは効かない。成田エクスプレスは外人が結構利用している。
('07/05/18)