社説対決・五番勝負

ラクレ編集部編:「社説対決・五番勝負」、中公新書ラクレ、'07を読む。読売、朝日、毎日、日経、産経の全国紙に東京新聞を加えた6紙の社説比較だが、レフリーに有名人を持ってきた点が同じ出版社による以前の「読売vs.朝日」と違う。発行日は1/10になっている。もう4ヶ月以上経過した。本書が取り上げるテーマは全て時事問題だから、時間が経つと取り巻く環境が変わって重点が移動したりする。だから早く読み始めようと焦っていた。以下小生の雑感と共に要点を述べる。
対決第一番は「教育再生」問題。レフリーは諏訪哲二。もう66歳におなりの、すでに幾冊もの教育論主体の著書を発表なさっている元高校教師。最後の方に長年、英語の教師をしてきたと自己紹介し、英語の早期教育など全くの無駄だ、なぜなら小学校に入る頃にはもう日本語でものを考える基礎が出来ているからと書いてある。私と完全に一致する意見だ。読売は国語力志向型、朝日は無定見らしい。本章は「愛国心」で始まる。私は清水幾太郎:「愛国心」、岩波新書、'050を学生の頃に読んだ。よく解らなかったが、愛国心を意識し続けることは島国ではことに大切である。
日本には愛国心なんて単語はなかったそうだ。郷土の誇りはあった。徳川期に国と云えばそれぞれにご領主様を戴く藩領を指した。我が国ほど国家と国民は契約で結ばれている、だから愛国心は自然発生するものではなく、育まねばならぬ対象であることを理解しやすい国はない。「経済学のキーワード」には書いてあった。所属組織への忠誠心は見返りへの信仰があってこそだと。家族や親父が給料を貰ってくる会社あたりまでは、意味が経験的に分かる。だが国家になると教育指導せねば信仰が生まれないではないか。その忠誠心が所属組織をより堅固にする。軍国主義と結びつけて排斥しようとする人たちが未だに結構いる。そのくせ安全とか福祉への要求は強い。国家運営は税金を払えば済む問題ではない。税金は愛国心の下位概念である。
対決第二番は「ホリエモンと村上ファンド」の問題。終わってしまえばとんだ茶番劇であった。社説にブレがなかったと褒められたのは読売だけである。株式上場企業ともなれば、その活動は深く社会と結びついている。企業体が株主だけのものでマネーゲームの対象に過ぎないとしか考えぬ"新旗手"は社会の害毒でしかない。ましてや裏ではルール破りの株価釣り上げ工作をしながら、テレビとインターネットの相乗効果などと触れ回られてはたまらない。でもマスコミの殆どは見破れなかった。自民党までホリエモンに迎合しようとした。村上ファンドはもっと悪辣だった。TBS問題ではホリエモンの上前をはね、阪神を阪急に売り渡して大鞘を稼いだ。すべての法律に関して性悪説に基づく抜け道防止策の必要性を感じさせた事件であった。
対決第三番は「北朝鮮と安全保障」。表題は北朝鮮となっているが、竹島問題を含むので実質は「朝鮮半島と安全保障」である。質は違うが北も南も我が国にとっては厄介な存在である。北朝鮮にはノドンと核装備の脅威で、安全の対米依存を強いられている。北朝鮮は拉致問題で、韓国は竹島領有問題で、一方的に解決ずみの姿勢を押し通そうとしている。国家行為としての拉致は世界の顰蹙を買っている。被害者に実のある謝罪と説明をして、友好関係構築への壁を乗り越えようとしないのか不思議だ。韓国も話題になるととたんに政府が反日を煽り立て、出来掛かった友好ムードを壊しにかかる。話し合いによる平和解決には国際司法裁判所に委託すべきだと思うが、解決ずみ姿勢の韓国は応じない。占領を続けている方が勝ちで、本来国際的に認められている海洋調査まで拒否するのだから、我が国も実力行使の機会を窺わねばならぬことになる。レフリーの戸高氏は読売が最も現実的かつ中立的と言っている。
対決第四番は「靖国と歴史認識」。ねじれにねじれた問題である。小泉首相に面会のため来日した中国女性副首相が小泉さんの靖国参拝を見て、ドタキャンし格好良く"憤然"と中国に帰った。我々には何とも無礼な後味の悪いパーフォーマンスと映った。靖国も歴史認識も心の問題で、双方がいかに言葉を尽くしても、もともとの哲学が違うからどうにもならない。日中韓の観念闘争が友好関係構築最大の足枷になっているのを見て、諸外国の政治家はきっと不思議に思い苛立っていることだろう。最近やっと中国側が観念棚上げの実務優先方式に下り始めたのは良い傾向である。本件に関しては中韓が観念論と政治を切り離す以外に解決の道がない。外交カード化するなど以ての外である。朝日などは中韓の姿勢を助けている。阿倍首相が訪中し胡国家主席と会談したときの社説において、読売が靖国が日中の最重要外交問題ではないとして、阿倍さんが現実の北朝鮮核実験問題を主題にしたことを評価している。
対決第五番は「ジェンダーフリー」。これ和製英語という。和訳すれば無性か。4/23の新聞に特急列車内での強姦事件が載った。女性が泣いていて加害者が判っているのに、凄まれて萎縮した40人からの同車両乗客は知らぬふりだったという。4/24の毎日の社説も心配していたが、各人にそれぞれの事情はあろうが、「義を見てせざるは勇なきなり」だ。この場合の勇は「男らしさ」に通じる。言論だけでは収まらないときの男らしさを、常に男は備えて置かねばならない。女らしさはその鏡像である。端午の節句、雛祭りは男らしさ女らしさを強調する教育装置であった。でも無性論者はそれを否定する。
女性兵士が当たり前になった。男女格差は確かに文明の進歩と共に狭まって行く。我が国では法律上の男女平等はとうに確立した。男女共学も教育基本法に謳われている。これ以上の性の違いによる格差の落としどころは、社会の慣習に任せるしかない。思春期前に異性に対する認識を深めることは、慣習に対する正常な意識を作り出す。私の小学校は高学年になると男女別クラスになった。クラス数が奇数であったので、1クラスは半々だったが、男女生徒を並べて座らすことはなかった。「男女七歳にして席を同じゅうせず」は、異性を意識し始める年齢からは、男らしさ女らしさを求める道を志向するように提言しているのだと解釈すれば、別段自然の摂理に反する話ではないと思う。
しかし現代の無性論者はさらに進めて、あたかも多民族国家のマイノリティ優先制度のごとくに、あらゆる社会機構に女の進出最小枠を作ろうという。4/19の時事通信によればフィンランドの閣僚数は20人で内12名が女性だという。無性論者の理想である。阿倍内閣では国務大臣に2人と補佐官に3人だ。今春の地方統一選挙では女性議員数が増えた。この傾向はずっと続いている。でもまだ2割に達しない。無性論者はフィンランド内閣的"理想"が例えば理工系学生数、研究者数などにも及ばねばならないと主張する。今は1割ちょっとだから正に論者の攻撃目標であるらしい。これだけ自主性を幼少の時から尊重される時代になって、行きたがらない学科に無理に女性を押し込もうという腹の底が判らない。理系でも偏差が大きくて、生物系化学系では、私が学生の頃から女性に人気があった。昔は男子だけの総合大学だったが、敗戦後10年も経たないのに、その薬学科を女学生が半分を占めていたのではなかったか。最後の現役を過ごした地方には薬学科がなかった。そこの工業化学科はなんと女学生の方が多かった。無理な仕掛けは必要ないのである。
一言付け加えよう。チンパンジーの社会を見ると本来の男らしさと女らしさのオリジンがよく分かる。チンパンジーは5百年前に分かれた(松沢哲郎:「進化の隣人〜ヒトとチンパンジー〜」、岩波新書、'02)一番人類に近い類人猿だ。ボスのオスがリーダーとなって外敵に対処し、メスが子どもを育てる。父系社会なのだそうだ。ボスの支配下には何匹ものメスがいる。「妾を何人持とうとそれは男の甲斐性」になっている。ついこの間までの日本の社会と基本は似ているのである。進化に事寄せて人類の本質まで否認してはならない。

('07/04/25)