ローマ世界の終焉T

塩野七生:「ローマ人の物語]X ローマ世界の終焉 第一部 最後のローマ人」、新潮社、'06を読む。]X巻でローマの歴史は終わりだ。本巻の第二部はローマ帝国の滅亡という題で、西ローマ帝国の消滅を書き、最後の第三部では、東ローマ帝国にイスラム教徒の手が伸び、地中海がもはやローマ人はおろかキリスト教徒の内海でも無くなったあたりまでを描く。高校が受験科目優先で、必修の世界史教育を疎かにした問題を契機に、著者が時折マスコミに顔を出すようになった。教育再生会議とか中教委の委員に最適任なお方ではないか。
AD395年にテオドシウス大帝が死んだ。大帝という尊称は彼が異端・異教を徹底的に排斥し、弾圧した政治に対する教会の贈り物である。大帝は、ますます活発化する蛮族の跋扈に、東奔西走の日々を過ごした。自ら軍を率いて侵略者に立ち向かった最後の皇帝とされている。帝位は19歳と10歳の兄弟に譲られた。キリスト教の「王権神授説」が支配者にとっていかに有利であったかを物語る。だからこそ徹底してキリスト教の布教に協力したのであろう。宗教と政治の危険な関係を示す見本である。彼の譲位は元老院の推薦もローマ市民権者の賛同ももはや必要としなかった。兄は東ローマ帝国、弟は西ローマ帝国を支配する。国家分割は大帝の意図するところではなかったが、国境騒乱が日常化して分割統治することはこれまでも再々行われてきた。その恒常化であった。ともかくもこの兄弟が皇帝として何とか命脈を保てたのは、大帝が死に際して、蛮族出身の誉れ高い武将スティリコを後見人と宣言したからである。
終焉への走りは西ゴート族のバルカン半島蹂躙と東ローマ宮廷の軟弱外交から起こった。スティリコの折角の戦勝も生かされることなく、最後は西ゴート族の族長をドナウ河からアドリア海に至る広大な地域の軍司令官に任命する結果となった。住民は合法的に蛮族の恣にされることになった。戦勝を生かせなかったもう一つの理由に、北アフリカの反乱がある。カトリックが公認されてから1世紀が経っていた。異端派は辺境に追いやられていたが、侮り難かった。北アフリカ、今のモロッコとアルジェリア西半分ほどに住むムーア人ではむしろ異端が優勢だった。その指導者が反西ローマ(反カトリック)を唱えて立ち上がった。彼は小麦の輸出を止める。ローマの台所は既に5世紀以上に渉ってアフリカなどの穀倉地帯に依存していた。スティリコは7万の敵軍を鎮圧する。戦勝の理由に純カトリック兵による異端退治宣言があったとある。兵士数は5千と少なかった。盛時なら何万をも送ったに違いないケースであった。国力の衰微を物語っている。没収財産で彼はローマの水道の補修工事を行う。
2世紀には人口150万を数えたローマは、当時30万ほどの人口に落ちていたという。元老院にミラノから皇帝を引き出して「公敵」宣言をさせ、かり集めた兵士を北アフリカに送った。それが5千であった。ローマの経済を支える農民は蛮族の侵略と強盗の跋扈で生産力を落とし、農地を放棄して都市に移り住むか、農奴化して大荘園の庇護を受けるかであった。都市は移住増加にも関わらず、少子化、非衛生化(キリスト教は入浴の習慣を嫌った)、経済力低下などが重なって、人口を低下させていった。非生産者の比重は聖職者を加え確実増加していった。元老院議員に代表される富裕層の公共心は薄れる一方であった。
スティリコは5世紀初頭に北と東から侵攻してくる2蛮族と闘う。まずは北のゲルマン系蛮族を破って講和に持ち込み、東からの西ゴート族と対峙する。北のゲルマンは活発化したフン族の圧力で西に新天地を求めるようになっていた。西ゴート族酋長は東ローマ皇帝から軍司令官の官職を貰っているから、まだハッキリと東西に分かれていないローマ帝国としては奇妙な戦であった。実質は蛮族の西進で、東ローマから見れば、異端で野蛮な彼等の暴虐を肩すかしして体よく西に預ける政策の成功であった。東西は修復できぬ分裂状態へ進む。スティリコは怯える皇帝をローマに避難させ、奮戦して彼等をバルカン北のもとの任地に追い返す。その頃のローマ軍は蛮族傭兵軍で、イタリア本土兵は軟弱であるため、ここ1世紀の間募集されることはなかったという。スティリコはブルタニアを含め北部中部のガリアを捨てる決心をする。ローマで凱旋式を挙行し、その熱狂を背景に、彼は戦費と兵員確保の法を元老院に飲ませる。
フン族による次のドミノ倒しは、黒い森シュヴァルツ・ヴァルトに住み着いていた東ゴート族主体のゲルマン系民族に起こった。西ゴート族が異端ながらキリスト教徒であったのに対し、東ゴート族は未だにゲルマンの神々を信仰していた。婦女子も入れての40万が、北イタリアに無秩序に、イナゴの大群が農作物を食い尽くすような格好で南下してきた。スティリコの号令にも関わらず、属州は動けず、到着したのは、ガリアでローマの軍務に服していた同盟者蛮族兵だけであった。イタリアの大農園主は、サボタージュを決め込んでいた。彼は強硬手段に訴える。奴隷を招集したのだ。彼はやっと3万の軍隊を準備した。4世紀初頭であれば、この国防線には25万の軍が常備されているはずのローマ軍であった。国力の衰退は目を覆うばかりであった。しかし中部イタリアのフィレンツェ近郊の会戦でスティリコは完勝する。40万人は霧散した。先頃まで奴隷であったローマ軍兵士は、大量の捕虜のおかげで、戦勝と共に奴隷を持つ身分になったとある。
次の次に当たるドミノ倒しは中部ガリアに起きた。侵入したゲルマン系民族は怒濤の勢いでピレーネ山脈に達した。北東部ガリアでは既にフランク族が居着いて離れなかった。加えるにブルタニア駐留ローマ軍が新皇帝を頂いてガリア中央を突破し南下してくる。この困難の中で西ローマ宮廷はとんでもない処置を執る。スティリコを息子およびスティリコ派武将共々謀殺したのである。直接原因はスティリコが、打開策として、旧敵でありキリスト教異端派である西ゴート族を抱き込む策謀を進めたこととなっている。結果として西ゴートは天敵から解放されたも同然となり、軍をローマにまで進め、元老院を脅し上げる。3万ほどの蛮族軍に対し、ローマ軍は傍観するだけという不甲斐なさであった。ローマ市民も情けなかった。城壁を包囲するだけの兵力のない敵の軍門に簡単に下ってしまう。味を占めた西ゴート族は、もう次の年には今度は10万に膨れ上がってローマを攻める。まずローマの外港を占拠し、翌410年には首都を陥落させる。アウレリアヌス城壁をめぐる激闘も壮絶な市街戦もなかった。信玄の「人は城」を思い起こさせる。ローマの劫掠はそのときの事件であった。酋長の死で、南伊征服は中断され、矛先は南ガリアに変更になった。
反スティリコのもう一つの牙城であった元老院議員の懐具合が記されている。中富豪でローマ市内に本邸が3ヶ所、地方に15ヶ所の別邸。別邸は農園経営の中心である。シシリー島の別邸が発掘されている。今飛鳥宮発掘で蘇我本邸らしい遺跡が見付かっている。その蘇我本邸の何倍もの大きさだ。年収入が金の目方で示されている。現在価格で12億円ほどだ。ローマ貨幣の信用が落ちたためであろう、外交でも金のやり取りに目方が使われている。1万石の伊予小松藩の収入は米5000石+上納金1250両で、6.25億円程度だから、中富豪とは江戸期の2万石くらいの大名に相当する。収入3倍の大富豪が4人、中富豪は20人、残りが小富豪で半分の収入として300人の元老院議員の年収は、340万石相当になる。関ヶ原の合戦では100万石の前田家が1.5万人を派遣した。スティリコのローマ軍が正規軍に加うるに、強権発動してかき集めた非正規軍をあわせても3万だったのは、長州征伐の頃の幕府に似て、既に国家の実態に市民が疑念を懐くようになっていたからであろう。

('07/02/15)