「退化」の進化学
- 犬塚則久:「「退化」の進化学」、講談社BLUE BACKS、'06を読む。
- 多分初作だったから何十年も昔の話になる。映画「五番町夕霧楼」に、西陣の旦那が、問わず語りに、水揚げした敵娼の媚態を抱え主に話すシーンがあった。原作は水上勉の小説である。興奮が高まると、胸にたくさんの副乳模様が浮かび出てくるのだと話す。犬も豚も一般に多産系の哺乳類動物は乳頭の列を持っている。進化の過程で退化した他の乳頭が、時には痕跡を皮膚の上に出現させることがあるとは、小学校時代に読んだ理科の本に載っていた記憶があった。だからこの台詞が頭に残ったのだろう。進化論にはその後も色んな形で出会ったが、平積みでこの本を見つけ、もう一度知識を整理する気になった。
- 本書に「副乳は祖先帰り」という節がある。女性の方が多いが男性にもあるという。哺乳類に祖先を持つ典型的な証拠であると。誰にでも胎児の時代に五対の乳腺原基が表れる。これが消え損なうと副乳になるという。ヒトは発生初期はお魚そっくりで、成長と共に系統発生をなぞらった個体発生を見せる。反復説と言うのだそうだ。子宮が2つある女性の話がある。泌尿生殖器系は左右対称に2器出来るのが原則で、腎臓、尿管、精巣、卵巣何れも2器ある。子宮も元来2器だったが、進化と共に融合して単一化した。だから彼女も祖先帰りした例である。
- 私は中学生時代にカエルを何匹か解剖した。麻酔無しの生体解剖で、今思えば申し訳なかった。エーテルもクロロホルムも学校の薬品棚にはなかった時代だった。死刑台の動物が痛いと思うかどうかも判っていなかった。カエルの生きている心臓を見た。2心房1心室で我々と違う。お魚はもっと簡単で1心房1心室だ。エラ呼吸のために分かれていた血液循環系が、肺呼吸のための循環系に進化する過程が説明されている。ヒトではもう脳味噌の奥深くに隠れて目の機能を失い分泌器官化しているが、もともとは目を2対持っていたとは驚きであった。松果体が第三の目であるとは知っていた。今でもそれに目の機能を維持している動物はいるそうだ。
- 進化論と言えば何と云っても骨の研究である。キリンの頸椎の数とヒトのそれは同じ7個だという話は小学生でも知っていよう。御祖先様が同じである証拠であると教わった。首のないクジラだって頸椎7個が殆ど融着したような格好で存在する。それではということで、我が家のワン公の口を強引に開かせて、歯の数を調べたことがあった。歯も骨だ。嫌がって抵抗するのであまり正確でなかったが、どうも我々とは違うらしいと知った。千葉県立中央博物館に行くとゾウの歯の化石がある。やけに大きい臼歯が1本あるだけだったらしい。歯数は動物毎に違っている。歯が鱗の進化したものだとは知らなかった。クジラの骨格見本には退化した後脚(骨盤)がぶら下げてある。陸上哺乳動物なら当然持っている複雑な骨構造は失われ、棒状の一本の骨になっている。用途が特化し出すと骨だっていつまでも同じでない。実際に町中にいて目で確かめられる進化論はこんな程度だ。博物館は大いに役に立つ。でも最近は博物館を有料化した。入館者数は激減しているのではないかと思う。慢性赤字予算対策の一環かも知れないが、生徒の理系離れに拍車を掛けている。
- 本書には骨に関する記載が多い。ヤツメウナギには顎骨がない。食物をすくい取る生活だ。顎骨はサメになって初めて出現した。これで噛めるようになった。鰓骨の先頭が変化した軟骨構造という。軟骨は周囲を覆いだした皮骨にだんだん取って代わられる。結局追い出されて、ヒトでは、耳の中で鼓膜の振動を三半規管に伝えるテコの役割を担う退化器官に変わってしまったという。ついでだが耳の穴はエラの穴で、胎児の時代には4対あり、その最先端だけが耳に化けるのだそうだ。肩の骨は結構複雑な構造だ。魚のカマと同じ出自だそうだ。NHK SPであったか、クロクマの子がシロクマに追われて木に登るシーンがあった。シロクマは木登りができるが得意でない。そのときの解説では、木登りが出来る動物と出来ない動物の骨格上の差は、鎖骨のあるなしだということだった。確かに博物館のクジラには鎖骨は見当たらない。この鎖骨という名称は、昔中国で、囚人の脱走を防ぐために、穴を開けて鎖を通したことに由来するとあった。
- 赤ちゃんの頭の頂点に柔らかい部分があることは知っていた。実験は何でも好きな方だが、我が子の頭を凹ましてみた覚えはない。流石に怖ろしかったのであろう。あれはヒトの頭が異常に大きくなり、本来の誕生日まで待ってはおれなくなって、早産している証拠だという。頭がぶよぶよの時に産んでしまわないと、骨産道が通れなくなる。誕生後の頭蓋骨の生育を見ると、1年ほど早産しているという。確かにヒトに限って、生まれてからしばらくの間、赤ちゃんは胎児のように何もできない。
- 消化器系の退化器官として著名であったのは、盲腸とその先にある虫垂であった。虫垂は炎症を起こすと切らねばならぬと少年の頃は怖れられていた。でもあれはリンパ小節が密集する免疫最前線だそうで、無用器官ではない。盲腸も植物の細胞膜を作るセルローズの分解を司る細菌を溜めたタンクだそうだ。ヒトは自前でセルローズ分解酵素を作れない。霊長類には虫垂があるが、たいていの哺乳類には存在しない。ヒトでは歳とともに縮小する。退化なのか進化なのか判断しにくい器官である。尻尾もその類だ。お魚時代は水中推進器だったが、陸に上がってからは第3の手(モンキー)、第3の足(恐竜、カンガルー)、ハエ叩き(馬、象)、マフラー代わり(猫)、攻撃用具(ワニ)などさまざまな用途に転用されている。ヒトにとっては痕跡器官だが、はたして進化と結びつくのかあやしい。
- お猿からヒトに至るまでの器官の消長には難問が多い。陰茎骨(そもそもこんな骨があること自体知らなかった)はなぜ消えたか、体毛はなぜ消えたのか、部分的に残っている体毛の男女差は何なのか。解剖学上の人種差が記載され出すのは、この時代を記述する章からである。黒人に多くあって白人に少ないもの、日本人に少なく中国人に多いものetc.。人種の近隣関係を知るのに有効だ。我々の幼児時代の蒙古斑が、日本人がモンゴル人種である証拠だと昔は云ったが、今はどう云っているのであろうか。アジア人に多く、モンゴル人にいたっては95%に見られると、Wikipediaに出ていた。
- 樹上生活の類人猿から草原二足直立歩行のヒトになった。DNA上は類人猿とヒトとは殆ど変わらないと聞いた。それでも違う一番目立つ進化は脳以外では手足であろう。手と足が分離した機能に応じて変化した。ヒトはもはや足でものを掴むことは出来ない。猿面冠者と言う言葉があるように、外見印象の第一の相違はお面相の違いだ。猿面の一番の特徴は眼窩上隆起だ。ヒトの男性には眉弓と言う名残があるが、女性には表れない。これは咀嚼器官の退化の一端で、下顎の出っ張りや歯牙の退化と並行している。第三大臼歯は親が死ぬ頃に表れるから親知らずと言ったそうだ。現在では親が長生きでいつまでもぴんぴんしているから、本当は「じじばば知らず」とにでも名を変えねばならない。親知らずは縄文時代には80%に生えたが、古墳時代人では60%、現代人では4本全部が揃うヒトは多数派では無いという。人体内で一番目立って退化している器官のようだ。
- 発情期の消失は、人類進化における最高に重要な発展だという。発情期が無くなって子育て期間を延長できるようになり、雌雄関係がわりと永続的になったとある。交尾行動が繁殖目的以外に使われだした。性の遊技化が進化と言えるかどうかは別として、他の哺乳類にない形質を獲得したことは特筆すべき変化なのであろう。
('07/02/10)