犬吠埼一泊旅行

家族旅行で県内に一泊するのは初めてである。米寿の祝いを一族で祝うという名目で、犬吠埼に自動車旅行した。乳児からの血族姻族合わせて14名。全員が関西出身だ。眷属の繋がりの濃い人たちがほとんど関東に越してきている。日本のベクトルが東京に向いていることを如実に物語っている。
旅館名はぎょうけい館と言った。ぎょうけいとは暁の鶏(ただし「けい」の部首は「とり」ではなく「ふるとり」だが、漢和中辞典には意味は同じとしてある。)という意味だ。関東では真っ先に日の出を拝める場所だからこの名を付けたのであろう。翌朝日の出を6:45に自室から眺めた。我が家への戻り道では高速を下りる前に日の入りを見た。日の出日没を同じ日に見る珍しい旅になった。
館内の廊下にあった写真には明治後期のものがある。その写真にはぎょうけい館しか見えなかったが、大正16年の銚子犬吠埼俯瞰図には既に3軒の旅館が描かれていた。銚子電鉄も走っていた。古くからのリゾートホテルであったと思われる。鉄筋コンクリートの建物に変わったが、基本を昔のように和風にした2階建てであった。海岸向きの多分昔は庭であったと思われる場所がプールになっていた。全室から海が見える。私どものあと続々客が詰めかけてきて宿はほぼ満室のようであった。
前々日に低気圧が通過した。中心の風速は台風級で、その周辺は波の高さが8MもあるとTVが報じていた。だから翌日の到着日もそうとうに波が高かった。波の打ち寄せる姿を見ると沖合2-3百Mあたりから白波が立ち始め海岸に打ち寄せる。そこらあたりから浅瀬になるのだろう。異常に大きな白波が立つ場所がある。暗礁があるのだろう。平素海岸になれない目が初めて見たときは、少し怖ろしく感じたほどだった。灯台下の岩にぶつかるときは一際水しぶきは高く舞い上がり、スマトラ沖の地震による津波のTV映像はそれを線状に繋いだごとくであったと連想した。目が慣れてから海岸の散歩コースを孫を連れて灯台まで歩いてみた。犬吠埼灯台あたりまでざっと1kmほど歩道が続いている。波の高い日だから、ところどころが海水のしぶきを受けて濡れていた。春のような暖かさだったが、散歩する人は見当たらなかった。トンネルを通り過ぎると、目前に大きな波しぶきが道に打ち掛かった。波の打ち寄せる様は毎回同じ様で同じでない。文人墨客を惹き付けたのも宜なるかなと思った。
宿泊部屋はベッドルームを別にしたスイート構成だが、リビングが和室であるのが特徴だ。クルーズ船なら1人1泊10数万円ぐらいに相当する広さだろう。私は船のスイートの客になったことはないので分からないが、あの値段は船旅の愉しみ方を変えないとちょっとばからしい。いつものことだが、部屋のバスタブは使わず、大浴場に行く。1区画を露天風呂形式にしている。ちょっと覗いたが寒くてとてもおれたものではなかった。海岸に面していて海の浪が観察できる。温泉だ。成分表を見ると海水の2/3ぐらいの塩濃度である。蛇口の温度調節機構はうまく作動していた。いつも思うのだが、クルーズ船の大浴場は部屋との往来が浴衣禁止なので、和風人間には苦痛である。その点、この旅館は良かった。パーティ食は3F宴会場の和食で魚料理のオンパレードであった。煮魚が美味く、1尾を平らげた。最後にそれぞれ異なる魚を載せた小さな丼3椀がでた。量が多くて誰も全部を喰い平らげられなかった。
その日のぎょうけい館までの道を記録しておく。我々は佐原回りを選んだ。佐原の諏訪神社前に吉庭という評判の料理屋があって、昼食に立ち寄るのが目的である。日本庭園がなかなかの風情である。我々は和室だったが、洋室もあるようだった。駐車場はほぼ一杯で、客の入りは良いようだった。大正時代に洋食屋として開かれた店だそうだ。料理は和洋中華とレパートリーが広い。雰囲気が良く落ち着くから、また春に来ようと家内とは話した。
明くる日、銚子電鉄に孫を乗せるつもりであったが、犬吠崎を見たいと言いだしたのでそちらにした。灯台見学料150円を払って、中を見る。99段を上ると灯台の上に出る。映画「喜びも悲しみも幾歳月」に出ていたから分かっていたつもりだったが、やっぱり狭い階段だ。資料室に初期のレンズが置いてあった。この灯台は明治7年の建設という。外国技師と国産煉瓦の使用に対して激しい対立があったという。私は現役の時いろいろの技術導入に携わった。中身は違うが、同様の問題に何度か遭遇したことを懐かしく思い出す。大阪市の市標が澪つくしを図案化したものだとは知らなかった。澪つくしとは夜標の灯台に対する昼標で、遣唐使時代から記載があるというから随分と歴史のある標識である。昭和の終わり頃だから今からもう20年は昔だが、「澪つくし」というNHKの朝ドラが評判を取った。銚子が舞台で、沢口靖子が主演だった。彼女は輝くばかりに美しく、懸命に生きる女性を演じた。あれも漁船用の昼標を意味したそうだ。
大人は東国三社参拝が翌日の目標であった。
息栖神社への道は124号線だが、銚子大橋を渡るとしばらくして片道2車線のいい道路になり、それが水郷道路に接続していた。水郷道路の手前で左折。農村は区画整理が進んでいて、田畑は綺麗に短冊状に整理されている。神社は息栖大橋の橋の袂の北西側だ。県立博物館関宿分館で見た絵図では江戸期には大層繁盛した神社であった。今も社叢は広く鬱蒼としている。社殿はまだ新しく中ぐらいの規模。力比べに用いた大小の石が並べてあって、笹川の繁蔵も試みたという。神社の鳥居は常陸利根川に向いており、その前が小さな港になっていた。民家が川に沿って村落を形成している。
神社を出て水郷道路を通り抜ける。あとで地図で調べたら真っ直ぐ124号線を進んだ方が近道であった。鹿島神宮の付近も随分整理され昔の記憶と合わない。観光協会の駐車場を見つけ、そこに車を置いて参拝に出掛けた。お宮の中は流石に昔と同じ。本殿拝殿前に正月用の臨時のお賽銭箱を工事中であった。重文だそうだが、あまり大きくなくしかも道路に面しているので、うっかりすると脇殿かと思ってしまう。大きさも壮大とは云えない。囲い(鹿園)の中に神鹿が飼われている。売店に人参を売っていた。鹿煎餅ではなく鹿人参を売る。1皿では収まらず2皿目が必要だった。奥殿を過ぎ池まで歩いて引き返した。この頃で既に正午をちょっと廻っていたと思う。
51号線を佐原へ行く。分かり易い小さな町である。忠敬橋を過ぎると佐原街並み交流館があり、そこに車を置いて口コミで聞いていた漬物屋に立ち寄り、評判のらっきょ漬けを何袋か買った。近くにお勧めの和風食事どころがあったがその日はお休み。直接に香取神宮に向かう。その門前に無料の駐車場が昔通りにあり、車を止めて参道入口の亀甲堂で草だんご焼き団子など食う。焼き団子とはみたらし団子を指す。どの神社もそうだが、ここは一段と正月目当ての出店準備が華やかだ。鳥居を潜り総門の階段に至る場所まで店が並んでいる。総門と楼門の間にも食い物屋の出店が作られていた。流石に本殿の囲いの中には入っていなかった。楼門を出て西に下りると昔講札をたくさん掲げた旧旅館遺構があったのを思い出しちょっと遠見をしてみたら、まだ建物は残っているようであった。

('06/12/31)