歴史のなかの鉄砲伝来

国立歴史民俗博物館の企画展示:「歴史のなかの鉄砲伝来〜種子島から戊辰戦争まで〜」を見た。久しぶりの歴博訪問であった。千葉から佐倉までの県道風景は、かなり変わっていた。新設のコンビニ、スーパーが目立った。帰途薄暗くなり、ランドマークを見失って今まで無かった新道に入り込んだ。怪我の功名で新鮮なドライブが楽しめた。歴博講堂では当日午後に、三遊亭円橘の落語上演があったそうだ。以前はこんな催しはなかったように思う。
広場で砲術公開演武があった。国友町から来た能当流保存会(国友鉄砲研究会)の一統が各種の火縄銃の試射実演を行った。射撃場ではないから空砲だと云った。国友町では昭和の初期まで鉄砲鍛冶を行っていたそうで、技術が今日に伝わった。堺の鉄砲も有名だが、今日には何も伝わっていない。口径18mmの中筒なら火薬量は4-6gという。重さは7kg、大筒になると15kgという。演武の最初がこれだったようで、轟音に皆ビクッと来た。現代のように肩骨で固定して撃つのではなく、頬に当てて撃つ。結構大きな反動がある。早射ちは10-12秒に1発ぐらいだった。
火薬は硫黄、炭、硝石からなる黒色火薬で、白煙をもうもうと噴き出す。まず粒状火薬を発射薬として銃口から落とし込み、次に弾丸を入れる。最後に棒で突き固める。今回は空砲故紙筒を銃弾代わりにした。導火薬も黒色火薬だが、細かい粉末にしてある。火皿に落ちてきた火縄で点火され、細い連結穴を経て火は発射薬に達する。この細い連結穴に導火薬を入り込ませるためと、火の伝わりをよくするために火薬を細かく砕いていある。粉がブリッジを造ると火が伝わらない。あまり細い穴では金属壁に熱が伝わりすぎて途中で火が消えてしまう。穴が大きいと楽だが、今度は火薬の力がその小穴から漏れてしまうと同時に、火炎で顔を火傷する怖れすら出てくる。火覆の工夫はしてあった。南蛮銃には無かったようだが、兵器としては雨対策が大切で、発火装置側には細かな濡らさぬ工夫がしてある。
幸いにもその日は、太田長浜市長浜城歴史博物館副館長のギャラリートークがあり、1時間ほどだったが、いろいろの知見を頂いた。戊辰戦争で伝統の鉄砲が兵器の役割を終えた理由は旋条(ライフル)銃にある。滑腔式と施条式では命中率が数倍以上異なる。野球でお馴染みのように、回転を与えないと銃弾の方向は定まらない。この命中率は集団戦法から散兵方式へと兵法まで変化させた。芯金に板金を巻く方式の伝統鍛冶では、小銃に施条を施すことは難しかったのであろう。江戸時代平和が続き鉄砲の需要が減り、国友の鍛冶は刀剣の鍔とか仏壇金具の製造に転出している。長浜に旅行したときに、曳山博物館に入り、浜壇職人が曳き山の飾り金具を製作したと教わった。浜壇とは長浜の仏壇のことである。
江戸末期になり黒船が領海付近を窺うようになってから、鉄砲鍛冶は活気を取り戻すことになった。火打ち石式、雷管式までは欧米技術をキャッチアップできた。化学者は雷管に使う雷汞Hg(OCN)2の製法も開発している。幕末懸命の技術開発は気砲風砲を生んでいる。空気銃である。でもまだまだ兵器としては実用に域に達していなかった。薬莢後装ライフル銃という現代の基本形式に達するには、やっぱり産業革命の洗礼が必要であったろう。大砲用には軍学者高島秋帆の工夫した施条工具が残されている。しかし当時の国産大砲に施条式があったと聞いたことはない。大砲には後装型も国産で実現している。大砲砲身の鋳造には梵鐘製作技術が活用できた。青銅溶解炉3基から同時に湯を型に流し込む絵図が残っている。湯路の予熱に炭火を置いている。苦労が偲ばれる。幕末期には製鉄用反射炉が各地で実現した。私は山口、伊豆の韮で見学したことがある。
渡来の鉄砲は西欧型ではなく東南アジア系列の品という。種子島伝来説が有名であるが、倭寇が日本南西の諸地方に運び込んだというのが本当のところらしい。国産化に当たって、最も困難であった技術はねじ切りであった。詰まった煤を掃き出すために必要なんだそうだ。砲術師が戦国大名にそのノウ・ハウを伝搬していった。伝来してから十数年も経つと戦国大名は鉄砲衆を組織するようになり、本格的に戦闘兵器として活用される。その頂点は大阪城を巡る攻防であった。家康が大量の大筒を用意させている。堺も国友も最盛期を迎えた。国友は3人の親方の下に70軒300人の鍛冶職人を抱える大型のマニュファクチャに成長し、砲術師を通して大名から注文生産を受けた。砲術流派はいくつも出来た。それぞれの特徴を備えた鉄砲を発注した。堺は注文生産の他に商品販売方式もとっていた。鍛冶師、カラクリ師、台師とだいたい3組が分業で受け持つ。カラクリとは発火装置のこと、台とは木製の砲身受けである。規格品の大量生産でないから、最後の台師が現場合わせで何とか鉄砲に仕上げる。一番難しい仕事だったという。
鉄砲の弾丸見本が残されている。球形弾だけではない。円筒状弾丸もあったようだ。これなら結構真っ直ぐに飛んだのではないかと思うが、特別の解説はなかった。4個、5個と紙で纏めて一度に打ち出す散弾のようなもの、魚撃ち用とか鳥撃ち用とか、ちょっと首を傾げたくなる形状のものもあった。実戦では鋳型ハサミを戦場に持参して溶融鉛から製造する場合もある。100mは飛ぶが、有効防御距離は50mほどで、長篠の戦の信長軍鉄砲足軽はさぞかし恐ろしかったであろう。全速で攻めてくる敵が50mに迫ればもう目と鼻の先という感覚だろう。鎧甲も鉄砲に合わせて当世具足という鉄板主体の防具に替わって行く。
くらしの植物苑では「伝統の古典菊」展をやっていた。鉢植えの古典菊が今が盛りと咲いていた。今更ながら園芸種の多さに驚かされる。日陰にツワブキが黄色い花を咲かせていた。群生している。葉の形からはキク科とは想像できないのに、花は素人でもキク科だと分かる。畑のキクはノコンギクとかコンギクというのであろうか。サフランは満開だ。サザンカはもう満開期を過ぎた。同じツバキ科ツバキ属のチャノキも花をすっかり落としていた。ボケに赤から白までのとりどりの色の花が、そう多くはなかったが、付いていた。同じ枝に色違いの花が付くからボケは面白い。これから春に向けてどんどん咲くはずだ。柿の実は殆ど枝から落ちたり取られたりでなくなっていた。近く琉球旅行に出るので、豆柿と聞いていたリュウキュウガキの、実を付けた姿を見たかったが、今年も駄目だった。休憩所に苑内で収穫したヒョウタンなどの実が並べてあった。

('06/11/06)