広重二大街道浮世絵展
- 千葉市美術館の浮世絵展を見た。浮世絵に特化した美術館である。テーマの二大街道は東海道と木曽街道だ。広重の東海道五拾三次之内は著名で、広く人口に膾炙しているから、美術館まで45分もの距離を歩く推進力にはならないが、木曽街道六拾九次之内には関心がある。今NHKで「街道てくてく旅〜中山道完全踏破〜」が始まっている。番組の旅人が宿場毎に木曽街道六拾九次之内の一枚を、描かれたであろう位置から見せる仕掛けになっている。木曽街道は中山道の別名だ。ついでだが木曽は岐阻とも支蘇とも書くらしい。街道は海道でもある。漢字を音標文字的に使った例であろう。与力とか同心とかは、日本語の当て字的表現だとどこかの本に載っていた。それと同列なのだろう。
- 日曜日に出掛けたのは、「木曾街道六拾九次の世界」という講演会があったからだ。題名から、絵の内容をスライドでも使って解説するのだろうと期待して出掛けたが、制作年度とか版元と下絵画家との関係とか、専門家としての考証過程の説明が殆どであった。それはそれで参考にはなるが、べつに制作年度が従来説より1年早くても遅くても、あるいは下絵作者のサイン(款)があってもなくても、浮世絵鑑賞に来ている私にとってはさほど重要ではない。私は中山道とその周辺の宿場のいくつかを訪れている。草津、馬籠、妻籠、奈良井、下諏訪。海野に稲荷山。妻籠から馬籠へは峠を歩いてみた。鑑賞と云うよりも江戸時代の旅の追体験を密かに期待していたのかも知れない。講演会は途中で抜け出す。音声ガイドシステムを借りた。以下には、展示品に対する印象に、NHK、講演とガイドあるいは室内の案内文を見て仕入れた情報などなどを混ぜ合わせて記述してある。
- 展示室に入ってシマッタと思った。浮世絵はA4いっぱい程度の大きさであることを忘れていた。私は老眼だから、本を読むときと同じで近用眼鏡が必要なのだ。仕方がないから細部は遠用眼鏡を外して裸眼で見る。木曾街道六拾九次の下絵は英泉が江戸寄りの1/3を、あとの京都寄りを広重が描いた。オーバーラップしている地域もある。版元が途中から代わっている。講演者は下絵作家と版元のゴタゴタを匂わせていた。初摺は下絵作者に忠実だが、後摺は下絵作者の意向とは無関係に、版元とか摺り師が売れ具合を見ながら配色などを決めて行く。版権は版元にあるのだ。東海道五拾三次が好評であったので、その人気にあやかるべく企画された旅風景画(日本橋の図には木曽街道続ノ壱としてある)だが、東海道ほどの人気は得られなかった。だから摺り数は多くはない。江戸人は浮世絵を単なる印刷物としか見ておらず、散逸しやすかった。今回の展示は、いち早く美術的価値を見出した欧米人によるコレクションが、完全な姿で残っていたおかげである。
- 木曽街道六拾九次之内として展示された版画は73枚。木曽街道は板橋から草津までの69宿である。最初の2枚の日本橋は宿場ではない。最後の大津宿は東海道に入る。初摺と後摺の両方が展示されている場合があるから、それを除くときっちり69宿になる。たいていは風光明媚な宿の近隣を描いていて、宿そのものが入った図柄は少ない。私は景色もさることながら、その中に描かれた人物群像に興味がある。その意味では美人画の英泉の方が風景の広重よりも私に合っている。「東海道五拾三次之内 御油 旅人留女」のような諧謔味溢れる旅人模様は見付からないが、結構人間関係を示唆するような図柄を見つけることが出来る。御油もその一つだが、東海道五拾三次之内は十返舎一九:「東海道中膝栗毛」の弥次喜多をモチーフに描いたと云える構図がちょくちょくあるそうだ。木曽街道にはそんなあやかり物語はないらしい。
- 街道絵を描くからにはスケッチ旅行は当然である。広重の甲州日記写生帳が展示されている。アメリカのコレクターが残していた。英泉のスケッチブックは世に残っていないらしいが、本人と目される菅笠に合羽姿の旅人が「木曽街道続ノ壱 日本橋 雪之曙」に後ろ姿で描かれている。日本銀行側の橋の袂から写生した風景になっている。彼は日の出に見惚れているらしい。江戸の朝は活発だった。もう荷車や人の往来で橋はごったかえしている。「東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景」は、木曽とは反対に、橋を南の袂から北東に眺めている。帰国の大名行列に何組みもの棒振りが描かれている。ここらは青物市場であり魚河岸だった。江戸切り絵図には、橋の反対側ではお城と富士山が見え「絶景なり」と書き込まれている。でも今は河の上を高速道路が走り、富士山はおろか日の出も拝めないのであろう。
- 旅はまずは安全であった。弥次喜多道中にはごまのはいが出てくるし、時代劇では窃盗強盗などの凶悪犯罪が目白押しで出てくる。しかし絵には女の一人旅、二人旅、三人旅、母と子の旅などたくさん描かれている。解説では当時としては世界に例のないほどの治安状態と紹介していた。描かれた天保期は幕末騒乱の一歩手前の時期で、まだまだ幕府の威厳が行き渡っていて、世の中は平和であったのであろう。天保の飢饉が続いていた、アヘン戦争で清国が敗れた、外国船が日本を窺い始めた、天保の改革が強引に進められたなど、中央政権は容易ならぬ時節と認識はしていたが、庶民が危機を身に感じる始めるのは、これより20年後である。
- 殺伐な景色が全く描かれていないかというとそうではない。「木曾海道 岩村田宿」は唯一大立ち回りの絵である。岩村田は今は信州の佐久市に属する、そのときは小城下町だった。本陣も脇本陣もない旅籠8軒だけの淋しい宿場だったという。その町はずれである。はじめは雲助が弱そうな旅人を狙って集団で襲った図だろうと思った。7-8人が取っ組み合っている。馬乗りになって押さえつけているもの、杖を振り上げているやつもいる。襲われた方が相手の足に食らいついて離そうとしない。目を瞑っているのが変だ。調べたら、座頭の喧嘩図と云うことだった。流血の騒ぎではない。なぜ盲人同士を闘わせるのか構図の意味は今となってはさっぱり分からない。「座頭市」だけではなく、時代劇には座頭はよく出てくる。(故)芦田伸介の一本眉にでた按摩・末の市はよかった。鬼平犯科帳である。彼らはしかし今風に、分かり易くすぐそれと分かる姿で出てくる。実際はこの絵のように色んな出で立ちであったのだろう。話を元に戻すが、物騒な構図はこれだけだ。江戸市民の旅への憧れを掻き立てる浮世絵だから、安心への配慮が働いているのかも知れない。
- ちゃんとした旅籠もあるが、木賃宿も描かれている。一部屋に何人も詰め込まれて雑魚寝である。旅籠で何を食っているのかと覗く。飯、みそ汁、香の物以外に2皿あって、その1皿には、内陸にも関わらず、魚が1尾和え物と一緒に付いている。博物館に行くと、蝋細工で展示された旅籠の膳を見ることが出来ることがある。食い物だけはいい物を出したらしい。天保の飢饉は寒冷地帯で被害が大きかった。東海道も中山道も、ことに後者は、東北ほどではなかったにせよ、結構気候の影響を受けていたのではないか。でも飯のお代わりをする姿もあって、旅籠が食料調達に苦労している風には見えなかった。木曽街道は東海道より距離が長く山道も多い。それでも大河が無く川止めに合わないから比較的よく利用されたという。往来に旅人が多く描かれている。だからか峠毎に茶店がある。葦掛けの簡単なものやらかなり本建築に近いものまでいろいろだ。昭和の30年代頃までは私もあちこちで見た。今はどうなのであろうか。
- 旅籠に女郎は付き物であった。赤阪旅舎招婦ノ図には、控えの間で招婦が身繕いをしている様子が描かれている。招婦とはあまり聞かぬ単語だが、招は娼に通じる。音標文字的使用の一例だろう。派手でもない着物だから絵だけなら見落とすところであった。身分や職業がハッキリ読みとれる人物もいる。侍、仲間、飛脚はあったかな、馬子、駕籠かき。牛車は短距離の物流に使ったのだろうか。お坊さんは尊敬を集めた存在だったようだ。掛川宿の出家とその弟子が旅人から丁重な挨拶を受けている。瀬田の大橋は別だが、地方の川には橋が少なく、あっても川半分だったり、仮橋だったり、舟を繋いだ浮き橋だったりで、渡河には渡し船とか川越人足とかで苦労したようだ。
- 街道てくてく旅を見る限り、旧中山道が国道化しなかった地域は、結構江戸時代の雰囲気を残していることが分かる。またそぞろ旅心が頭を擡げるのを感じる。
('06/09/26)