キリストの勝利T

塩野七生:「ローマ人の物語]W〜キリストの勝利〜」、新潮社、'05を読む。発刊済みのローマ人の物語はこの巻が最後である。思えば初巻からここまで、遙かな外つ国の歴史を延々と読み続けてきたものだ。このHPを「ローマ人の物語」で検索したら、計40編の記事が入っていることが分かった。読み始めたのが'03年の夏であったから、丸3年掛かっている。全15巻の筈だそうだから、最後の1巻の発売が待たれる。本小文は本巻の第1部 皇帝コンスタンティウスに対応する。挿し絵の菊は今日が重陽の節句だからだ。文とは関係がない。
著者の巻頭言は一際冴えている。ローマ近郊の目立たぬヴィラ遺跡に立って、その持ち主である元老院議員の思いを写し取る形で、4世紀の、かってはローマの栄光を担った上層階級が今置かれている現実を描写する。時流に逆らう気はない、さりとて時流に乗ろうとも思わぬ、沈思黙考して帝国の行く末を案ずるのみと云った雰囲気がある。そしてそれが著者の本巻に対する基本姿勢だという。もちろん時流とはキリスト教を指す。
別添資料に大帝コンスタンティヌス皇統という表がある。死因に誅殺(粛清)、殺害、刑死とついたトップリーダーの何と多いことか。またしても血塗られた歴史を感じさせるのに十分な資料である。大帝はペルシャ戦争出征中に死んだ。だが戦闘前の準備段階であったので、ローマ軍は混乱もなく兵を引くことが出来た。大帝は死の直前に洗礼を受け、遺体は焼かれずに首都コンスタンティノープルに戻った。ローマ再統一と防衛に大功があったから、以前なら直ぐに神君の称号が元老院から送られるはずだが、一神教のキリスト教徒が神になるはずはなく、"大帝"号に収まることになる。彼は死の2年前に後継者人事を行った。5名の息子と甥に副帝の地位を与えたのである。だが甥の2人とその父つまり大帝の異母弟はあっけなく他の高官多数と共に葬儀の後に粛清される。残ったのは実の息子3人であった。彼ら3人はローマとコンスタンティノープルの両元老院の承認を得て正帝となった。だがこの3人も無事では収まらぬ。またも黒沢明監督の映画「乱」を地で行く骨肉の争いが繰り広げられる。
元老院とか市民権者というブレーキ役が遠退いたその頃の皇宮では、去勢男子の側近が勢力を蔓延らせていた。中国の宦官組織である。あれは中国独特ではなく、オリエントの専制君主制王国では普通に見られた官僚である。ローマが非ローマ的になって何か必然のように宦官が頭を擡げてくるとはちょっとした驚きである。それから何よりも大切な軍の支持であるが、そのころになると兵士は属州民と取り込まれた蛮族出身者によって占められていて、かっての市民権者兵士のような国家への帰属意識はもう薄れていた点に注目せねばならない。部族全体を兵団に組み込むことすらあった。彼らは部族への忠誠心で動くから、実利という餌の意味が重要になってくる。
大帝が死んだとき、長男ですら20才に過ぎなかった。まずその長男が三男と闘って退場する。あっさりと三男が到着していないのに死ぬのである。仕掛けた長男の不満は単に分け前が少ないという程度であった。長男の帝国の1/3分の領土は三男のものになった。だから全体の2/3を彼が治めることになった。2正帝時代は10年続いた。この間はペルシャとゲルマン蛮族への対策に応対の暇もない時代だった。三男の帝は、去勢官僚の跋扈に不満な蛮族隊長により血祭りに上げられた。彼の他にドナウ下流地方の軍団からも皇帝を名乗るものが出て、またまた内戦に火がつく。
東西の雌雄を決する戦場は、ハンガリーとクロアツィアの境目あたりの平原だったという。西の4万弱、東の8万。合計して5万4千の戦死者を出す大会戦だった。双方がいかに勇猛果敢に闘ったかが分かる。上級中級のベテランほど死亡率が高かった。ローマ帝国はこの戦いによって一挙に兵力を低下させた。西の軍兵の描写がある。濃い茶色の髪と目の色の集団に、金髪と青い目が相当数混じった集団とある。辺境ローマ人と蛮族の混成軍である。一糸乱れぬ、戦略に乗っ取った旧ローマ軍団の戦闘ではなく、各個別の戦場入り乱れての戦争であった。蛮族の戦法に似てきたとある。戦陣を離れなかった蛮族上がりの西の主将とは対称的に、東の正帝は恒例の激励演説をしたあとは戦列を離れ、教会の中で祈りを捧げていたという。日本の天下分け目の東西大決戦・関ヶ原の合戦では、大阪城を一歩も出なかった秀頼が負け、戦陣に腰を据えた家康が勝利した。だが、ドナウ河河畔の合戦は、後方でお祈りの東の正帝が勝ったのである。キリスト教史家の作り話のような気もする。ついに東の正帝は唯一の皇帝に上り詰めた。皇帝コンスタンティウスである。
でも、この全兵士の半数近い戦死者数には私は合点がいかぬ。あるいは白髪三千丈的表現かと思う。中国のお馴染みの表現法である。中国の戦史には、どう考えても多すぎる参戦数戦死者数が出てくる。ごく最近では二次大戦犠牲者数がある。2千万とも3千万とも云う。ヒズボラ対イスラエルの犠牲者数がほぼ10:1であったのは、主に弾薬量の差だ。アメリカの絨毯爆撃原子爆弾攻撃で壊滅した日本の死者が300万あまりで、その10倍も中国人の犠牲者がいるなんて、とても常識では考えられぬ。詩的表現としての白髪三千丈はすばらしいが、歴史と混同してほしくない。ちょっと脱線したが、大陸的表現法として、この白髪三千丈はユニバーサルかと思っている。関ヶ原の合戦の規模は、東西合わせて15万の軍兵で規模はやや大きい上に、平原ではなく狭い山裾で闘われた。だのに、戦死者数は8千と桁違いに少ない。しかも兵器が鉄砲になって殺傷率は飛躍的に改良されたはずだから、なお合点がいかぬ。
次々と肉親を殺した正帝コンスタンティウスはまたも従兄弟に当たる副帝を佞臣化した去勢高官に殺させる。最後のたった一人残った肉親で、殺した副帝の弟を副帝の地位につける。第2部のユリアヌスである。内乱で壊滅的打撃を受けたライン河防衛線を立て直す必要があった。彼は就任するとすぐにガリアに向かった。
6才から幽閉生活を送り、自由になってからもギリシャ哲学の学徒でしかなかった副帝ユリアヌスは、リヨンの南の町に護衛の350人とたった4人の従者を連れて赴任した。猜疑心の強い正帝は、去勢官僚のネットワークに監視を怠らせなかった。ゲルマン民族との最初の会戦は、オータンというフランス中央部の町でであった。ライン河防衛線をはるかに越えたこんな地方にまで、侵略が及んでいたのである。副帝が率いることが出来た軍勢は総数が1万3千と盛時に比べると驚くほど少ない。彼は勇戦して、まずは3万5千のアレマンノ族を打ち破る。3年後には北のフランク族を敗走させる。栄光の時代にはそうであったように、彼は蛮族を追ってライン河東部に深く攻め入り、当面は両蛮族が立ち直れないだけの打撃を与える。この間に皇帝コンスタンティウスはローマ帝国最後の凱旋式を挙行する。ローマ市民が皇帝の姿を直接目にするのは45年ぶりであった。
父の大帝はキリスト教を政治の道具にした。しかし息子のコンスタンティウスはキリスト教を奉信した。次々とギリシャ・ローマさらにはシリアの神々が排斥されはじめ、対称的にキリスト教の優位が政策的に打ち出されて行く。聖職者階級はすでに公職免除、非課税であったが、さらに教会の使用人や所有資産に働く人々までが、人頭税免除になった。聖職者の財産私有が認められ、一般の資産家にとって財産保持の有力な方便になりだした。キリスト教会関係者と軍事関係者および行政官僚が皇帝を支える3本柱となったのである。キリスト教が多神教徒の海の中で、小舟を浮かべる権利を貰ったときは大層しおらしかった。が、一旦優勢になると本性が歯をむき出す。偶像(神像)が破壊され出すのはもう少し後だが、偶像崇拝禁止令が出され、神殿閉鎖命令が出る。古来宗教の祭事は禁止され、神殿の石材活用(破壊)まで許されるようになる。
皇帝としては新宗教が一致団結して体制維持に協力してほしかった。しかし一神教が多神教に厳しく排他的であったのと同様に、教団内の宗派が互いにむしろ異教徒に対するよりもなお激烈に、他派の排除に血道を上げていた。異端の語源はラテン語で、選択を意味した。それが一神教優勢になってからは正統でない誤った説を指すようになった。言葉からして、一神教の排斥本能を示していると著者は厳しい。父帝のミラノ勅令には、信仰とは、各人が自分自身の良心に照らして決めるべきと書いてある。父帝の頃はまだ多神教徒の寛容が心底にあったと言えるのだろう。

('06/09/09)