キリスト教公認前後
- 塩野七生:「ローマ人の物語]V〜最後の努力〜」、新潮社、'04を読む。3部に分かれている。本小文では、その第3部 コンスタンティヌスとキリスト教と、第1部及び第2部に章節の形で解説されている関連の歴史を纏めようとしている。次々と立っては消えた軍人皇帝時代を経て、ディオクレティアヌス帝は豪腕をもってローマ帝国に安定を取り戻した。だが彼の引退によって再び内乱が始まる。16年後にコンスタンティヌス大帝がライバルを打ち砕き、3世紀に入ってから色濃くなり始めていた専制君主制をより強固にした政治を行う。もはや、ローマ市民も元老院も出る幕が無くなり、帝国は中世的非ローマ的ローマと化す。真のキリスト教公認が行われたのは彼の時代であった。
- ローマの神々を数え上げると30万柱に達するという。日本にはヤソヨロズの神がおわした。ヤソヨロズとは八十万と書く。延喜式神名帳の式内社の神が3100柱あまりだから、式外社を入れても実際は1万柱にならないだろう。もっとも靖国神社が明治以降の戦死者を祀ったから、今では我々の神の実数はヤソヨロズどころではなくなっている。でも30万柱は途方もなく多い。征服民の神々をもローマの神々に仲間入りさせたからである。多神教の多神教たるところで、同化政策の基本の一つになっていた。出雲民族が大和民族の被征服民となったときの大和朝廷の対処も同様であった。
- 延喜式の式外社には、熊野那智大社や石清水八幡宮のような今日にまで続く大きな社もある。平安中期になっても朝廷の神々にはならなかったが、我々の神に取り込まれて広く信仰されて来た。ローマ民族と我々は基本思想においてかなり波長が一致するのである。だが、キリスト教民はどうか。私は、何かの写真集の中で、敗れたゲルマン蛮族の長が、キリスト教徒の勝者の見下ろす中で壊された神像に寄り掛かっている絵を見たことがある。敗者の神に対するキリスト教の処置を暗示する絵であった。一神教はといった方がよいのであろうか、彼らは異教徒もその神も許さない。その歴史がこの巻以降に展開するのである。
- NHK BS11で溝口健二監督の「新・平家物語」を見た。叡山の僧兵が日吉神社の御神輿を担いで強訴に下りてくる。御神輿に神宿るなどとは今では誰も思うまい。だがあの時代にはこの「まやかし」に朝廷側は手も足も出なかった。平清盛はご神体の御神輿に矢を射掛け僧兵を退散させる。矢を射掛けただけで本当に退散したのかどうかちょっと疑わしい。だが、それ以後強訴が尻窄みになったのは歴史的事実だ。キリスト教の聖職者が使った「まやかし」は御神輿どころではなかった。中世1000年間封建領主や国王を縛り付けたのであった。コンスタンティヌスの寄進状である。
- ルネッサンス時代に入ってからこの寄進状が実は贋作であったことが判明する。内容はコンスタンティヌス大帝がヨーロッパ全土をキリスト教会に寄進したというもので、教会の国王領主支配のための有力な手枷足枷に使われた。だが中世の領主たちが寄進状を信じる理由はあった。皇帝の資産を教会に寄進しているのである。新ローマのコンスタントティノポリスを幼児イエスに寄進するモザイク画が現イスタンブル、アヤ・ソフィア寺院に残っている。皇帝の資産は私有財産ではなく、公共的性質が強い。歴代の皇帝が受け継いできたものだ。しかも彼には、黄昏を迎えようとしていたとは言え、国教のローマの神々の最高神祇官として祭りを執り行う責務があった。
- 彼が大帝the Greatとキリスト教徒から絶賛される理由は他にも色々ある。そもそもが東の正帝リキニウスとの連名で公布されたミラノ勅令が、彼のキリスト教振興策の基礎になっている。没収教会資産の返却を国費で行った。聖職者の兵役免除、公職免除、租税免除を決めた。重税と金本位制採用で苦吟していた中産階級は無視できぬ勢いで聖職階級に逃避を決め込もうとする傾向すら出てきた。おかげでキリスト教側は今までの下層民主体の支持層に知識階級が加わって発展を加速出来るようになる。東の正帝リキニウスの健在中の施策としての優遇策は、多分に将来の布石であった意味合いが強い。リキニウスの地盤では特に今のトルコ近辺でキリスト教徒が多数派を占めるまでになっていた。リキニウスも勅令に従って手を打ったであろうが、人数の多さ故に負担がそれだけ大きかったはずである。徹底できなければその分コンスタンティヌスに人気が集まる。
- イスタンブルのかっての大聖堂、カッパドキアに遺る岩窟教会など、私はトルコに旅したことがないのに、今はイスラム圏に含まれるトルコがかってはキリスト教の金城湯池だったことを知っている。たいていはTVからの映像による知識である。しかし3世紀末に既に他に先駆けて唯一キリスト教徒が多数派である場所とは知らなかった。少数派でも無視できぬ数が住む地域としてはローマ近辺、カルタゴ近辺、アレキサンドリア近辺、リヨン近辺、今のギリシャ、キプロス一帯と人口密度の高そうな位置全てが上がっている。東の正帝ディオクラティアヌスが303年に帝国全域に公布した「大」弾圧令はそんな情況の中の皇帝の危機感がにじみ出ている。
- 教会の破壊、資産没収、ローマ法諸権利剥奪、集会禁止、聖書やキリスト像および祭神具一切の没収と焼却、続いて聖職者逮捕投獄など徹底した弾圧ぶりだ。何度も出てきたが、ローマへの協力貢献の一切を拒否する内なる敵国に、外患が和らいだ時を待って、宣戦布告したのであった。これまでにも弾圧は散発的に行われはした。帝国建て直しを真面目に取り組んだ皇帝ほどこの問題に真剣であった。「大」弾圧であったのにも関わらず処刑者数は多くはなかった。禁令は309年に解かれている。結構脅しに負けて信仰を捨てた信徒(転びバテレンのこと)が出たようであった。日本も秀吉が気付くのがもうほんの少し遅かったら、属国的キリスト教国と化していたのではないか。教団の、植民化の意図を示す法王庁文書が遺っているそうだから。
- 先に地域別のキリスト教徒の数を述べた。多数派とか少数派とかは本巻の付図に示されている。だが一方では、4世紀はじめの東方大都市においてすらキリスト教に目覚めた人々の数は、全人口の5%ほどと言っている研究者がいることを紹介している。こうなるとコンスタンティヌス帝のキリスト教肩入れの真意が何か興味深い。父コンスタンティウスの代から既にキリスト教に寛容であったという研究者もいる。しかし後述のニケーア公会議に集まった司教の数は全300人で、その中の10人が西の代表であったと云うから、西のキリスト教徒の数は微々たるもので、敢えて弾圧するほどのこともなかった。実母はイェルサレムにまで巡礼したクリスチャンであった。その影響は肯定すべきだ。帝は聖墳墓教会をこの聖地に立てている。帝は新都にローマ神殿を造らなかったばかりか、旧都ローマには今に遺るキリスト教大聖堂を複数建造している。キリスト教分裂の危機には自らが主催してニケーア公会議を開き、イエスの三位一体説を公認させた。
- 著者は明快である。皇位の正統性を神から授かるとすれば政権は安定すると彼が考えたからと云う。王権神授説である。ローマ伝統の授権者はローマ市民と元老院であった。人間に主権があれば、今までの歴史が物語る血生臭いリコール劇を今後も覚悟せねばならない。だが物言わぬ神を誰が代弁するか。キリスト教では司教という階級だそうだ。司教を味方に付けるためにあらゆるサービスを試みる。繰り返しになるので詳述は省く。最後は司教区内の司法権まで司教にくれてやる。もはやローマは法治国家と言えなくなった。重税に困ったら、皇帝の徴税官に司教から文句を言って貰うというようなルートも生まれてきたのであった。これらの優遇策がキリスト教徒の増加を加速させるために役立たぬはずがなかった。その一方で、多神教徒の多い軍団では親キリスト教的態度は見せていない。コンスタンティヌス大帝にとってキリスト教は「支配の道具」であった。
- 類い希な政治感覚を示した大帝であったが、ペルシャ戦に出陣し、337年に病死する。享年62才であった。
('06/09/05)