最後の賢帝マルクス・アウレリウス

- 塩野七生:「ローマ人の物語]T 終わりの始まり」、新潮社、'02の"第1部 皇帝マルクス・アウレリウス"を読む。終わりの始まりとは、ローマ帝国終焉への下り坂がここから始まるという意味である。繁栄の頂点に立ったマルクスは比類無き賢人として2000年もの間名声を失わなかった。その後キリスト教時代に入り、民の精神構造ががらりと変化したのにもかかわらずである。彼が「自省録」を残した哲人であったのもその評価に資しているだろうが、もちろん皇帝たるもの実績無くして評判は望めない。マキュアヴェッリは云う。民衆は、抽象的な事柄に対しては判断を誤っても、具体的なことには正しい判断を下すものであると。相変わらず彼はよく引用される。彼の君主論を昔々に読んだ。"被"統治者を芯から理解した名著である。
- 日本の天皇、シナの帝王のように、封建時代の、あるいはその時代に基本を置く承継制度は、男系長子おらなければ血縁でもっとも近い男子といたって明確である。しかしローマ帝国の主権は少なくとも形式上は市民と元老院にあった。皇帝は眼鏡にかなった人材を次期候補に遺言する。元老院はほぼ100%それを認める。この微妙な差を筆者は懸命に伝えようとする。第3代賢帝ハドリアヌスに実子はなかった。第4代賢帝アントニヌス・ピウスは実は第二候補で第一候補が病死したために幸運を得た。ハドリアヌスは第4代に、第5代候補マルクスをその予備候補リキウスと共に養子とすることを条件に、皇帝に推挙したのであった。ハドリアヌスほど次世代に心を配り成功した例は今までにない。マルクスはリキウスも皇帝に就任するように要請し、ローマ史始まって以来の二人皇帝時代にはいる。第4代の時代は先代のよろしき配慮のおかげで全くの平和時代であった。だが蓄積した歪みは不幸にも第5代にいたって噴出するのである。
- 飢饉と洪水がローマを襲った。そこへパルティアが友好国アルメニアに侵攻してきた。ローマは緒戦に敗北する。対パルティア戦は3期にかけて闘われ、結局はローマがティグリス河東岸深くパルティア領内に攻め入った後、凱旋する形で終わる。オリエントの2極構造はかくてローマ1極構造に代わり、パルティアは弱体化の後ササン朝ペルシャへの道を歩むこととなる。ローマは勝ちはした。しかしとんでもない疫病神を背負って帰った。ペストである。引き上げた北方防衛線の軍団兵に蔓延し、防備が脆弱になったのを蛮族は見逃さなかった。感染病の専門家・岡田晴恵博士の「感染症は世界を動かす」には、540年頃エジプトからビザンチウムへと拡大した感染症がペストと確認される最初としている。中世のペストロードが遠くサマルカンドまで遡れることが示されている。この本には2世紀中頃のマラリアのヨーロッパ侵入について触れられている。時期的に感染経路的に一致するので、あるいはローマ軍団の疫病神はマラリアであったのかも知れない。
- 首都のキリスト教信者の動向が描かれている。テヴェレ河下流部に固まって住んでいる。信者は主に異邦人だ。まだ弱小教団である。「邪悪で堕落した」帝国市民とは生活に一線を敷いて公生活への参加を拒否している。ローマに危機が訪れたこの時期には市民の反撥が頭を擡げだした。信徒はむち打たれた後に斬首刑に処せられた。闘技場で猛獣の餌になるのはもう少しあとで、第二次ゲルマニア戦役の頃という。リヨンのガリア自治体の司法が安上がりの予算で剣闘士競技をサービスするためにやったとある。
- 蛮族は狩猟民である。狩猟民は生活に計画性がない、計画の立てようがない。産めるときに産めるだけ産んで、人口が生産力を越えると、豊かな地方を狙う。定着性の生活には無縁だから、略奪殺戮の上戦利品を持って引き上げる。戦利品には奴隷用の住民が含まれる。北方ゲルマン民族が遊牧まで進んでいたとは書いてない。北海、バルト海沿岸からライン河ドナウ河の防衛線までにはいくつもの部族があって影響しあっているが、いよいよこの頃から最北のゴート族、ロンゴバルト族、サルマティア族(彼らはゲルマンではない?)が登場する。中世の民族大移動時代に名を馳せる部族である。彼らの動きが玉突き的により南あるいは南西のゲルマン諸部族を圧迫し、結果としてローマ国境を越えさせることとなる。かってカエサルの時代に、ガリア民族がライン河を越えてくるゲルマン民族に押され押されてローマの庇護下に入ったが、同じような民族移動がこの時期にはゲルマン部族間に生じたのであった。玉突きの情況は一切資料がないようで、詳しい著述は何もない。
- 懐深くそれも再三防衛線を破られ、一度はイタリア本国にまで攻め込まれ、300年の安眠を破られたローマ市民のショックは大変だった。二皇帝は出陣する。年下だがあまり政治軍事に熱心でなかった皇帝ルキウスが旅中に急死した。指揮系統が一本化してかえって良かったのではないか。マルクスのゲルマニア戦役は中断期を入れて合計5ヶ年に及ぶ。最盛期のローマ軍団の総掛かりであったが、従来の1ヶ年程度での終了とはならなかった。その後も問題はくすぶり続け目的は完全には達成できなかった。国内都市の防壁とか国内軍団の創設とか不安解消のための出費がかさむ。
- ゲルマニア戦役ほどには重大でなかったにせよ、この間には砂漠の民にスペイン南部を占拠され、エジプトでは原住民の反乱が起こり、アルメニアでは親パルティア派のクーデター発覚事件が起きた。パルティア戦役などで赫々たる武勲をたてたシリア属州総督が謀反を起こしたが、部下に殺害され事なきを得た。しかし皇帝は東方の後始末に出掛けるために、第一次ゲルマニア戦役を心ならずも和平に持ち込まざるを得なかった。旅先で皇后を失う。著者は先帝時代からの様変わりを時代の新たなうねりと総括している。だが同時代の人々は未だそれを予感していなかった。哲人皇帝とてそれに気づくのは、第一次ゲルマニア戦役(サルマティア戦役)終了後であるという。蛮族を近蛮族と遠蛮族に区別し始めた。
- 健康を損ねていた皇帝はしばらく静養する。15才にしかならない息子に共同統治者の公式立場を元老院に承知させる。その前に前線に呼び寄せ、皇位継承に向けた箔付けも行っている。繰り返すが、息子であるだけでは皇位は継げないのがローマ帝国の慣習である。娘婿には全て当代の武将を選び、万一の場合の義兄の役割を期待する。忠誠で信頼できる武官が皇帝の脇を固めていた。後継者への布石は万全のように見えた。そうしてから第二次ゲルマニア戦役に旅立つ。彼の目的はドナウ河北方のボヘミア地方をダキア地方同様の属州とすることであった。皇帝出陣に奮い立ったローマ軍は蛮族軍を圧倒した。
- だが皇帝は次の春の攻勢を見ることなく病死した。主だった将軍と息子を呼び、遺言してから水と食を断って4日目に死んだ。享年58才、多難な19年の治世であった。彼は妻との間に14人の子供を儲けた。成人したのは娘が4人と息子が1人だった。乳幼児死亡率が極めて高い時代であった。妻はゲルマニア戦役が起こると皇帝の前線に生活の場を移し、「基地の母」となった。控えめな人であったらしい。皇帝は私人としては幸せであったのだろう。
('06/07/19)