すべての道はローマに通ず


塩野七生:「ローマ人の物語] すべての道はローマに通ず」、新潮社、'01を読む。冒頭の「はじめに」に本書の予定が出てくる。全15巻1000年間5世紀までという。残念ながら東ローマ帝国は著述されないようだ。これまでの編年体形式の歴史物語から一変させて、この巻だけはインフラの父ローマ人の業績を、ハードとソフトの両面から掘り下げるとある。大帝国ともなれば大城壁大寺院などの壮大な遺構を各地に残す。だが「人間らしい生活をおくるためには必要な大事業」と定義されていたらしいローマ人のインフラに匹敵する事業を残した民族はいない。元技術屋(私)期待の1巻である。
敷石舗装の幹線が8万km、砂利舗装の支線を入れると全長15万kmというとてつもない道路工事が、紀元前312年のアッピア街道から始まった。私道まで入れると倍の30万kmという。イタリア本国内の工事は200年ほどで完了した。我が国は縄文から弥生に移りかけていた頃である。西から東に走る街道には中央の山脈を越えるためにトンネルすら穿たれている。それも幅6mという堂々たるトンネルだ。平地の幹線は、軍用という生い立ちに沿って、ただただ真っ直ぐに建設されている。幅10m強、その中央4m強が車道で、両脇に排水溝を備えている。歩道は両側の3mだ。車道には深さ1.5-2mほどの基礎工事が施された。3層の、粒径の異なる砂礫層が敷かれている。その上に断面弓形の舗装石盤が乗る。
私は箱根の旧東海道、妻籠−馬籠の旧中山道を歩いたことがある。どちらも石が敷き詰められていた。でも自然石の面を揃えた程度の舗装だから、路面には凸凹が結構あって歩き難かった。基礎工事がないからであろう、石は地面にめり込み加減であった。水はけの工夫も多雨地帯なのにされていなかった。おまけに自然地形に沿ったグニャグニャの険しい坂道であった。道幅も狭い。ローマの舗装は面出し加工をした石を使うから、寺社の参道に見られる石畳道同然で、輸送の効率化に大層貢献したことであろう。後世メンテに手が回らなくなって、石畳に轍の跡を残すようになるが、帝国が健全な時代にはそんなことは起こらなかった。城壁より道路建設を優先する。平素は一般市民が使うのだから、被征服民族の経済的発展とローマ民族への同化に有効であったことは想像に難くない。
道路と同じ規格の石橋が全土で3000から建造された。その10%は今も現役であるという。ローマを流れるテヴェレ河に架かる橋だけで云うと、11本の内5本が今も使われている。2000年から経っているのに。橋脚の工事は河川の中に防水壁を巡らし水を抜いた後構築する現在と同じ方法だそうだ。錦帯橋のようにタイコ型にすると資材の節約になるが、輸送はそこがネックになってしまう。石橋は道路同然にフラットに仕上がっている。丘の起伏を陸橋によって平坦路にしてしまったケースもある。長さ370mの陸橋の側面図が示されている。旧国鉄山陰本線の余部鉄橋は、明治42年に着工された長さ310mの陸橋だ。だが単線である。ローマの橋の車道は複線でおまけに歩道が別に付いている。そのころの馬車は幅が1.5mだったという。多分車輪間隔だろう。今の排気量1500ml級の自動車の車輪幅が丁度そのくらいである。明治の頃に鉄路以外に陸橋があったとは記憶にない。ローマ人の徹底した国防哲学にただただ驚くばかりである。
道路と橋の記述は終わった。つぎは旅行である。私は先日草津線沿線の旧東海道風景を車窓から見るだけの旅をした。草津〜三雲までは鉄路に付かず離れずに旧東海道が走る。道路に沿って細長く連なる和風住居の列はなかなかの景観であった。旧東海道には53次の宿場があった。間隔は平均2~3里(8~12km)で、馬人足完備の駅舎である。ケンペル:「江戸参府旅行日記」によると旧東海道は往復とも12日間で通過している。1日に10里ちょっとだから3宿ぐらい飛ばし飛ばし旅を行く。でもケンペルはオランダ使節団の随行員だから急ぎ旅ではなかった。
藤村:「千曲川のスケッチ」には大人の農民は日に16里を歩くとあった。私の記録は日に12里である。ローマの宿駅制度も江戸時代の日本によく似ている。アルプス越えの街道を通った巡礼者の記録が残っている。旅宿の間隔は36.5kmで10里弱、馬交換所や飲食所を入れると16.6kmに1ヶ所の割でなんなりのサービス・ポイントがある。飛脚の制度もしっかりしていた。ローマの国営郵便制度は馬飛脚、郵便馬車で郵便物のある無しに関わらず運行される定期便方式であった。8万km全部にこの駅逓施設が構えられ、迅速に情報伝達が行われた。郵便制度は一般旅行者も利用する。郵便馬車は小包から赴任役人まで載せたという。
1巻の旅行地図が紹介されている。長さ6.75m幅34cmで、ローマ帝国全土はもちろんローマ人の知識の及ぶ限りをカバーする世界地図である。地形をデフォルメし旅行に必要な知識を詰め込んである。製作は4世紀半ばで、キリスト教が公認されたが昔からの神々も共存した微妙な時期だった。ローマは国家としては下り坂にさしかかっていたが、駅逓制度は維持されていたことが読みとれる。サービス・ステーション間の距離、ホテルの等級、温泉場の位置など細かな案内書を兼ねた作りになっている。
ローマ街道には環状道路がない。迂回バイパスを認めず、全部がノード点を通る。移動速度からの必然性、情報公開に依る民主型の国家などいろいろ理由は考えられる。近代都市との大きなハード面での相違点だ。また昼間に馬車で乗り入れるのは御法度で、皇帝でも下馬徒歩で市内にはいる。だが日没になると車が入れるので、それっとばかり鉄輪の荷馬車などが石畳の上をギャリギャリゴトゴトと騒音を発しながら行き交う。大江戸と同じで、ローマの都市は生鮮食糧を全部郊外からの搬入に頼っていた。江戸は水運だったが、ローマは陸運故同じ100万都市でも騒音は段違いであったろう。ソフト面での相違点である。
本巻巻末には例外的に多くの遺跡写真が挿入してある。撮影は本国イタリアだけではなく帝国全体に及ぶ。道路や競技場が、本国を外れると、幾分手抜き加減に作られている場合もあって面白い。

('06/07/04)