賢帝ハドリアヌス&アントニヌス・ピウス


塩野七生:「ローマ人の物語\ 賢帝の世紀 「第2部 皇帝ハドリアヌス」「第3部 皇帝アントニヌス・ピウス」」、新潮社、'00を読む。ハドリアヌスは先帝トライアヌスの血族で23才若い五親等の、従兄弟の子である。四親等血族の姪の夫でもある。彼はトライアヌスとはかろうじて傍系親族であった。アントニヌス・ピウスは「ローマ化したガリア人」で、狭義のローマ人ではない。ただ祖父の代から本国イタリアに移住し地位を得ていた。トライアヌスの五親等の娘と結婚した。ハドリアヌスはその娘の三親等血族にあたる姪の夫である。
そのままだったらピウスはトライアヌスともハドリアヌスとも現行日本民法上の親族関係にはなかったが、ピウスはハドリアヌスの養子になった。なおハドリアヌスはトライアヌスの養子になっている。ハドリアヌスには先帝との地縁があったが、ピウスにはそれもない。ローマはアントニヌスにいたって民族の壁、文化の壁、宗教の壁を乗り越えて、当時のギリシャ・ローマ的センスでの民主的な統治体制下で平和共存できる社会に進化していたのであった。。元老院階級という枠はまだ遺っているが、皇帝候補の範囲がどんどん広がってゆく。最後まで閉鎖的であった徳川将軍家の世継ぎの選択肢と比べてみれば、全く対称的である。
ハドリアヌスの養子縁組はトライアヌス帝病死直前に密室で行われた。唯一第3者的立場であった侍医は数日後原因不明の死をとげた。皇位継承後トライアヌスの腹心の幕僚たちが近衛軍団長官の指示で始末される。彼らはアンチ・ハドリアヌスと見なされあらかじめ軍団から遠ざけられていた。長官はハドリアヌスの代父で、密室の一人だった。幕僚は元老院議員であったから、元老院との関係は険悪になった。ハドリアヌスは2ヶ年をかけて、関係修復に勤め、市民には民主的性格をアピールし大盤振る舞いをして、ついに主権者である元老院議員と市民の人気を獲得した。皇帝が市民との裸の付き合いに大浴場を活用したエピソードなど、我が国では思いも寄らぬ話である。
ハドリアヌスが就任早々にもっとも心を砕いた問題はパルティア戦役の終結である。パルティア王国は、戦に勝っても息の根を止めることが出来ない厄介な相手である。ローマの覇権者としてのプライドを傷つけるような条約は皇位の存続に関わる。彼は先帝の命令と嘘を付きメソポタミアを引き上げた。ドナウ河北方蛮族の起こす小規模の紛争は軍団を引き上げる絶好の口実になった。注目すべきは、この塩野さんの大著にはじめてスラブ系としてドナウ河河口北岸の民族が紹介される点である。スラブは2世紀はじめになって初めて有史時代に入ると云うことか。戦利品のパルティアの黄金の玉座も捕虜の王女も返還されなかったが、昔のように、アルメニア王をパルティア王が推薦しローマ皇帝が承認した。新条約調印のような表沙汰のない曖昧な関係に留め措くのが、国内の刺激を避ける良策であった。
ハドリアヌスの公共事業は特筆に値するものは少ない。先帝までの貢献ですでにローマの丘は素晴らしい景観を見せていた。だが現在はほとんど全てが地下に埋もれ、遺っていても新建造物のそれもアパートの外壁に利用されている程度で、アテネのアポロポリスの丘のような、古代の偉容を偲ぶ縁となるようなものは何もない。著者は知りたければむしろキリスト教会を精査したらよいと云う。ローマが滅びて後、古代建築物は格好の石材供給所となった。彫刻、内装壁材、はては大理石の床面まではぎ取られ転用されていった。我が国でも敗者の石垣が新城の材料となり、不足分にはさらに墓石や石仏まで利用されている例がいくつもあるが、同じような行為がイタリアの後代に行われたと云うことだ。それでもたくさんの「産業」廃棄物が出た。遺物が地下に埋もれているのは自然に堆積物が表面を覆った結果ではなく、利用不能の産廃が取り除かれずにそのまま放置された結果である。
ハドリアヌスは治世21年の内2/3の14年を辺境での戦い、巡視と張り付け軍団の刷新に当てた。最初の大旅行はドナウ河、ギリシャ、小アジアそれから地中海を横切ってガリアを縦断し、ライン河からブリタニアに至る。何しろあの大帝国をわずか16-7万の正規軍団(現在の陸上自衛隊並み)と14万人前後の補助部隊、合計で30-31万の軍隊で守るのだから、実質の維持活性化は平和を守る上で最優先されるべき問題であった。彼の頃になると正規軍団の兵士は大半が属州民になっていた。軍団の組織指揮命令系統装備など細かに解説されている。立派に近代軍隊に通用する内容である。軍団に厳しい規律と訓練を求めただけではない。基地は現在も地方の中心都市として遺っていることからも分かるように、ローマ社会の縮図であった。低地ゲルマニア軍団基地の軍病院の平面図が載っている。内科医と外科医が常駐したそうだ。医術水準を別にすれば現代にも通用する病院構造である。軍以外の住民にも開放されていたという。
今に遺るハドリアヌスの防壁は周囲の牧歌的な風景に点睛を加えている。監視塔と城塞が500m間隔で現れる6-10mHX117kmLの石壁が南北を分断していたとはとても思えない。ここも後世に石材を転用したからである。この防壁がスコットランドとイングランドの境界を作ることとなった。NHKで、石壁内側の城塞基地の守備兵の生活環境を物語る考古学的成果が紹介されたことがあった。妻帯禁止のローマ兵に現地妻があり、子どももいる。脱走兵ありとの木簡資料など、なかなか生活臭が溢れていた。次の皇帝はさらに北方にもう一つの防壁を作るが、最終的なローマの壁はこのハドリアヌスの防壁であったという。
ローマに覇権を譲ってから久しいのに、ギリシャ語には特別の地位が認められ、ローマはラテン語とのバイリンガルで統治が進められてきた歴史がある。南イタリアの旧ギリシャ植民地地方の人々は公用語のイタリア語以外に今もギリシャ語を話すと聞く。若い頃にギリシャかぶれであった皇帝は約半年の滞在中に、人材喪失で衰退の一途を辿ってきたギリシャに、学芸、商業、観光の都市としての再生を試みる。アテネの古い公共建造物が修理復元され、新たにゼウス・オリンピア神殿が寄贈された。彼の手で、ギリシャの四大競技会が活性化された。ギリシャ中興の祖がハドリアヌスだとは知らなかった。彼のその次の巡幸先は北アフリカ一帯であった。農業定住民の確保が砂漠化から土地を守る。今の北アフリカ定着民はかっては流浪の民であった場合が多い。緑を守る=平和を守るという根底がよく理解されているかと著者は疑問を呈する。現状を思い計ってのことであろう。
ローマ法大全がハドリアヌスの命で仕上がった。我々がまだ弥生時代であった頃だ。そう多くは引用されていないが、その時代の人権思想の端的な表現として、奴隷の待遇に関する条項は注目に値する。私刑の禁止、私牢の禁止、売春業者や剣闘士業者への転売禁止、連帯責任処罰の禁止など一定の配慮が見られる。後世にローマは解放奴隷の家系から皇帝を戴くことになる。生かして活性化に繋ぐローマの神髄である。
ハドリアヌスの大旅行は続く。第2回目が北アフリカ主体、第3回目が中近東前線主体であった。年来の敵パルティア王を招いた諸侯参集の大会議も催された。遊んだ場所は皇后を伴った皇帝領のエジプトだけのようだ。
ユダヤ属州はローマの火薬庫である。先帝が天敵のパルティアと戦っていたとき、パルティアと通じて起こした反乱は、ローマに、2世紀にわたって続いた寛容政策に終止符を打たせる下地になった。ハドリアヌスは巡幸の際にユダヤ教過激派に仕掛ける。1つは割礼の禁止である。まだキリスト教はユダヤ教の一派ぐらいの地位だったと思うが、キリスト教徒は既に洗礼に切り替えていた。異教徒から見ればまことにおぞましい野蛮な儀式だったし、既に無視し得なくなっているキリスト教徒との間にくさびを打ち込む意味もあっての禁令かも知れない。もう1つは軍団の駐留基地を聖都イェルサレムの真横に設置したことである。基地内に以前からあったユダヤ教会は破壊され、ギリシャ・ローマの宗教の最高神ユピテルの神殿が建設された。
怒り狂った過激派はついに立った。そして敗れた。要塞と城壁、町は徹底破壊され、50万人が殺された。現在のイェルサレムはローマがその後に復興したものである。捕虜はもちろん奴隷に売られる。ユダヤ教徒のイェルサレム立ち入りが禁止され、これからイスラエル建国の20世紀に至るまでの間彼らは離散することとなった。注目すべきは、既に世界各地に散らばっていた穏健派である。彼らは別段の処罰を被らなかった。カルタゴ、ダキア同然の厳しい処置には、可能な限り民族の自決を許すが、敵対行為は断固排除するローマの伝統がある。ローマ帝国内の宗教紛争の主役は以後キリスト教に移る。
私がローマの聖天使城を観たのはもう40年以上の昔である。新皇帝廟として彼が建設し、死後神格化されてここに葬られた。キリスト教時代には法王の砦に改造され、戦乱の時に法王が逃げ込む最後の拠り所になった。円形灰色で周辺を威圧する造りである。巡幸を終えた皇帝は日に日に健康を失い、気難しい存在になっていった。子どもがなかった彼は最後の責務として養子縁組による後継者を発表し、しかもその後継者には次々皇帝候補になる2人の青少年を養子縁組させた。別邸の「畳の上」で62才で死んだ。
新皇帝アントニヌス・ピウスの治世23年間は、帝国全域を平穏な秩序が支配する市民にとってはもっとも好ましき時代であった。皇帝は視察巡幸の旅に出ず、首都ローマと本国イタリアに居続けながら統治した。先帝先々帝の築き上げた基盤を地道に堅実に仕上げていった。ハドリアヌスの人事をそのまま受け継ぎ、目覚ましい公共事業は何もしなかった。公徳心が厚く、慎重で穏健だった。要するに人格者だったのである。「ピウス」とは慈悲深い人を意味する。専守防衛の路線が敷かれた軍団の唯一の例外的行動は先述のスコットランドのアントニヌス防壁の建設である。ハドリアヌス防壁の北120kmの位置である。しかし防衛線の二重化という意味であって本格的防壁はハドリアヌスの方であった。歴史家にとっては地味な保守主義者で書く材料に困るという皇帝だった。

('06/06/24)