賢帝トライアヌス

- 塩野七生:「ローマ人の物語\ 賢帝の世紀 第1部 皇帝トライアヌス」、新潮社、'00を読む。ずっと文庫版で読み続けてきたが、[巻第23分冊「危機と克服[下]」で出版が止まってしまったので、やむなく図書館で借り出してきた。中途半途は嫌いである。新潮社さん、文庫本化を最後までやり遂げて下さい。
- トライアヌスはローマ帝国始まって以来はじめての属州出身皇帝である。神君カエサルのお血筋がネロまで続き、そのあとは本国地方自治体出身の貴族にまで出身が拡大していた。元老院の構成にも本国と属州の均等化の波が始まっていたという。トライアヌスは父の代に元老院・貴族階級入りを果たした。ユダヤ戦役以来の並々ならぬ功績への報償という。父の最終官職はシリア属州総督であった。シリアは仮装敵国パルティア王国と対峙する最重要前線であった。皇帝が交替してもトライアヌスは順調に帝位に至る道筋を通過していった。必要な「名誉あるキャリア」の最終段階・執政官に38才で到達し、すぐ高地ゲルマニア司令官に任命される。皇帝暗殺により推挙されたネルヴァは、帝位就任後トライアヌスを共同皇帝の養子とする。ネルヴァ死去により44才で帝位を嗣ぐ。
- 皇帝となってまず手掛けたのはドナウ北岸のダキア族撃破であった。ダキア族は諸部族の糾合に成功し、一大王国を建設する勢いであった。先々帝時代以来ローマとの戦闘は2勝2敗で、平和協定ではローマ軍捕虜のために身代補償金を支払う屈辱を受けていた。トライアヌスは大軍投入を決意し、連鎖反応で侵攻してくるかもしれぬゲルマン蛮族への対策として、まずライン河防御網の完璧化のための手を打った。次いでドナウ河のインフラ整備に乗り出す。ローマ軍は兵站で勝つ。ローマの名将は「ローマ軍は、つるはしで勝つ」という言葉も残しているそうな。手っ取り早く崖を迂回したりせずに山を切り崩して真っ直ぐな道を造る。物量にものを云わせて完膚なまでにやっつける方が結局は安上がりだという。なんだか二次大戦の日米決戦を云っているようである。
- そうしてからトライアヌスはローマに帰った。帝位についてから初めての帰都であった。それからの2年を内政の充実に使う。属州の比重が高まる中で、本国の地位を保持するための微妙な工作でバランスを取る。ローマ皇帝とは「元老院とローマ市民、軍隊、属州、同盟国の全てからなる帝国の統治を託された唯一の存在であり」、その目的とするところは、「帝国民全員の自由と繁栄と安全の保障を措いて他にない。」と文人元老院議員が書く。中国の皇帝より米国大統領にはるかに近い立場なのだ。その彼が賛辞を贈っている。よほどの賢帝だったのであろう。本国の空洞化対策の一つに育英資金制度の整備が上げられている。どの国でもやることだろうが、資金の手当から支出額まで法で定まっていることが素晴らしい。受益者には嫡出の男女、庶出の男女が上がっている。我が国の江戸時代に、嫡出の男子それも長子以外に公的援助を受けた記録があったかどうか。キリスト教国で庶子の遺産相続が認められるようになったのはつい最近のことというコメントが載っていた。金額も軍団兵士給与の2割程度だ。私の記憶では、我が国の半世紀以上昔のそれが、やっぱり初任給の2割強であった。
- ダキア戦役は第一次が101年から1.5年ほどの間闘われた。敵の3倍の兵力を使ってきりきりと包囲網を絞り上げてゆく。戦争を直接に今に伝える遺物は戦勝記念碑「トライアヌス円柱」だけだという。寺や神社の縁起絵巻のように、高さ200mの円筒面に細かに刻み込まれた戦闘推移図が、臨場感溢れる姿で1900年昔の戦いを伝えてくれる。戦略とか戦術までも伝えるというから記念碑の傑作である。ダキア王は屈服し、属国化を了承した。
- 外堀を埋めるという言葉がある。和平が続いている間に、ドナウ河には1135mLX27mHX12mWの橋脚石造、橋桁橋板木製のトライアヌス橋が1ヶ年の突貫工事で完成してしまった。上下2段に道路がわたっていたという。瀬戸大橋と同じ構造だ。川中の橋脚の遺跡は近世まで残っていたが、オーストリア・ハンガリー帝国の手で爆破されてしまった。ヒスパニア(スペイン)やブリタニカ(イギリス)やクレタの大隊の名が石材に遺っているという。さらにダキア国内のローマの要塞はどんどん強化されてゆく。ローマに通じる道もどんどん延びてゆく。何しろローマ兵は全員が工兵である。奴隷や征服民にやらせるだけではないから急ピッチに工事は進行してゆく。
- 第二次戦役は起こるべくして起こった。ダキア王はローマの基地に奇襲をかけた。しかし總動員数15万というローマ軍に敵うべくもなかった。トライアヌスの戦後処理は共和制時代のカルタゴ処理を思わせる過酷な処置であった。捕虜5万のかなりが祝賀闘技会の剣闘士として命を失い、残りには奴隷の身分が待っていた。民族は領土内の居住を許されず、北方へ追放され、代わって周辺諸民族が移住してくる。ダキア領は現在のルーマニアの一部であるが、現住民がラテン系の言葉を話すのは、当時の共通語としてラテン語が必要だったからである。
- 平和が来た。ダキア属州は金銀の鉱脈が豊かな地で、敗死したダキア王の遺産も莫大であった。トライアヌスは壮大な公共事業を始める。彼の業績は史書の形ではあまり伝わっていないが、考古学が正確にその建造年月まで言い当てる。煉瓦の刻印から分かるそうだ。建造物はローマに集中している。彼は今までのどの皇帝よりも大きな建造物に拘った。その中にフォールムがある。政治、経済、司法の中心で、市民集会の場でもあった大広場だ。日本語に訳しようがないと云う。市民集会の伝統のない国に相応の言葉がないのは当然かも知れない。江戸時代に広小路が現れるが、あくまでも防火が目的である。港湾の改造新設も行った。全ての海上輸送路もローマに通じるようになった。イタリア本国内の陸路も整備され、東海道に対する中山道のように、オリエントに向けては複線化が行われた。
- ローマ帝国の内政の困難は、小泉首相の抱える困難の比ではないだろう。帝国自体が世界だからだ。内政とはだから属州統治である。皇帝の基本政策の一つは、飢える心配の排除であった。過激化は絶望の産物だ。現在のイスラム圏の火種の奥底がこの周辺にあるとは識者でなくても理解できる。さらに地方自治の徹底も行われた。地方の内政はその自主判断に任せる。州議会があるなんて思いも寄らなかった。だが州の統治は中央派遣の総督が行う。彼の暴走を防ぐのは属州民の告訴権である。告訴は機能した。判例の引用がある。注目点は二つだ。上官の命令でも法に反した命令には従う義務がない、親の罪は子に及ばない。いまだにまずは反日の中韓には、親の罪は受け継がれるものという封建思想が基本にあるのではないか。
- キリスト教問題が皇帝と属州総督との往復書簡の中に現れる。いよいよだ。キリスト生誕後1世紀を12年ほど過ぎていた。西では未だ微々たる勢力であったが、東では市民権を持った人々にまで浸透し始めていた。道徳心高く、品行方正な信者だが、悪評高い組織の一員であるという理由で、国家反逆罪ないし邪教信仰者として処罰を加えねばならぬかという問題であった。皇帝は温情を持って臨んだようだ。悪評とは将来ローマに対抗する徒党に成長しかねないと云う意味だ。使徒パウロが邪悪で堕落した社会と攻撃したローマであったが、私人としての皇帝にはその一欠片も見出せないと本書に記されている。
- パルティア王国は現在のイラン・イラク地方に跨る強国で、ダキア問題が片づいた当時ではローマの目の上の瘤であった。紀元前63年のポンペイウス以来だから、彼我には2世紀に渉る抗争の歴史がある。その頃の対パルティア問題はアルメニア王国が常に絡んでいた。平和条約はその国王をパルティア王が推挙し、ローマ皇帝の元で戴冠式を上げるという取り決めになっていたが、パルティア側が破ったのである。トライアヌス帝は10万の兵により彼らの首都あたりまでを席巻する。だが、パルティア王国を破壊するに至らぬうちに死去する。64才で治世は20年に及んだ。その後継者にはハドリアヌスが指名されていた。
('06/06/12)