物理学校


馬場錬成:「物理学校−近代史のなかの理科学生−」、中公新書ラクレ、'06を読む。物理学校とは東京理科大学の前身である。なにしろこの学校は夏目漱石の「坊ちゃん」で名高い。坊ちゃんは物理学校の出身なのである。私の身近にも東理大出身者はぼつぼついる。日本の理系社会にあっていぶし銀のような存在であると誰しもが了解している学校だと思う。今キャンパスを東京の他に千葉の野田、北海道の長万部等に構えている。長万部は開校直後に見学した。学生たちは地元民にたいそう歓迎されていた。誘致運動があったのだろう。野田には大学祭の頃、東京には近代科学資料館の見学に立ち寄った。大学に関する断片的な知識を一度纏めておきたいと思っていた。著者は本学出身のジャーナリストである。
長万部の教室表示はフランス語であった。非常に珍しい。案内の教授からは一通りの説明があった。本書には由来が詳しく載っている。創立者が東京大学理学部仏語物理学科出身だからだ。この「仏語」物理学科はたったの3年で廃科されてしまう。明治11-13年学生として在籍した全員が団結して14年に設立した夜間学校である。生い立ちの特異性に目を見張る。当時の私学にはすでに慶応と同志社があった。だが両校とも法文志向であった。本格的な理学教育を主眼とした学校の設立は異彩を放ったであろう。若き21名の同志の「日本の将来は理科」という使命感が、法文重視の社会環境にあって、ほとんどを持ち出しの形で学校を設立し軌道に乗せる姿には全く驚嘆させられる。現代の日本が科学技術軽視では成り立って行かないことはもう誰もが認識している事実だが、明治初頭の士農工商の風潮から抜けきっていない時代に、将来像を見誤らなかったエリートたちに拍手を送らねばならぬ。
本当に持ち出しもいいところだった。維持同盟を結成した頃は16名に減っていたが、彼らはめいめい3学科を受け持つと同時に年30円を寄付し、学校を経営するのである。彼らは30-40円の月給取りであった。経費の大半は月に40-50円ほどの教室の賃貸料と実験器具の運搬料だったという。実験器具は容易に想像されるように高価でとても自前で用意できるものではなかった。そこで東京大学出身の利点を生かして大学から借用したのである。授業料は月30銭平均として20人程度の生徒では月に6円ほどにしかならなかった。現在に換算するには1万倍すればよいと云う。若手大卒30-40万円/月は今でも高給の部類だ。それに比べて生徒の月謝は極端に安い。今ならカルチャー教室であっても週一で月に1万円ほどだ。学校は週5日毎日3時間教えたという。当時の一般とエリートの需要供給の関係を物語っていて面白い。校舎はとうとう自前拠出金によって建設された。だがこれも台風で倒壊しまたもや校舎を借りねばならぬ事になる。5ヶ年に6回も移転を繰り返している。
教科表を見ると、物理学に関しては戦前の旧制高校レベルであったらしいと分かる。例えば光学には波動論、光速度、複屈折、分光などかなり高度な学問が入っている。分からない述語もある。多分現代の用語とは違っているのであろう。物理学に力学がないが、重力学という項目がある。明治41年には力学を重学と呼んだという記述がある。重力学はmecanique, dynamiqueの訳語とは思えないから、フランスでも現代とは違う言葉を用いていたのであろう。細目に重力論が入っている。重力場の運動解析には微積が必要だが、数学に微積がないのは不可解だ。微積は明治24年になって始めて教科に顔を出す。統計確率もないが、不確かさが理学の中でクローズアップされるのはもっと後の時代だと思うので、分からぬでもない。
明治21年に物理学校は校舎を2200円で購入した。煉瓦造りの、半分は活版工場として使われていた中古の建物だった。創立7年目である。物理学校は一時は生徒は1名を数えるだけという存亡の危機を迎えた時代もあったが、このころになると300名を越す入学者があり、経営基盤も幾分健全になった。まだ夜間学校のままだった。物理学、数学の他に化学が教科に取り入れられていた。修学年度2ヶ年、入学金1円、授業料初年度70銭/月、2年度1円/月になっていた。120名枠の特別科(修学1ヶ年)の新設も大きかった。特別科は東京職工学校(現在の東京工業大学、徒弟制度を脱皮した中等技術教育を目指した。)への予備校である。順調に入学者は増えたが、卒業者数はごく少数であった。2回落第すると退学という厳しい規則が容易な卒業を阻んでいた。著者はそれが本校の伝統になっていると胸を張る。私は必ずしも現在は入れても卒業が難しい学校ではないと思うが。明治22年に卒業生から物理学校の教師が出た。いよいよ発展期にはいるのである。
本書は設立に携わり維持同盟の会員として物理学校を支えた人々の伝記が幾重にも挿入された書物である。彼らは当時の日本のエリート中のエリートであったから、若くして日本の権威になった。高級官僚、諸高等教育機関の校長、教授など華々しい経歴を綴っている。維新に続く文明開化に貴重な人材であり、20歳台30歳台の若さで今では想像も出来ぬほどの大役に身を粉にして立ち向かった姿が偲ばれる。だが物理学校教諭としての業績ではないのだから(副題の中の理科学生が彼らを指しているのなら別だが)、本書の趣旨からすればそう多くのページを割く必要はなかった。彼らは本業の傍ら東京在住の時には夜間学校の教諭をこなしたという立場であった。卒業生が報徳会という組織を作り、師の使命感に謝恩するエピソードがある。寄贈を受けたときの校長の談話に、物理学校が官庁からも財閥からも一銭も貰わずに自主的に経営していることに意義があると言葉がある。同窓会は大正3年には経営基盤をそれまでの維持同盟から引き継ぐ。明治27年には年に6-700人の入学があり、年に20-30人の卒業生を出すほどの規模になった。
明治39年創立25周年を物理学校は現在本部が置かれている神楽坂の新校舎で迎えることが出来た。建設費は大半を同窓会が集めた基金に依っているが、維持同盟も現在価値にして400万円/人というたいそうな寄付を行っている。ただ一人だけ寄付が出来なかった会員がいた。鮫島理学士である。同輩の立身出世とは対称的に彼は中学校女学校の教諭として一生を送った。その茫洋たる風貌が藤村の「千曲川のスケッチ」ほかに残った。藤村とは小諸義塾の同僚だったのである。スケッチを読み返してみると、本文中には年老いた理学士としてあちこちに散見されるし、奥書には明確に実名で記されている。かくて16人の同盟会員の中でもっとも我々現代人に著名な人となった。皮肉な話である。
当時は理学士など全国を探しても何百人のオーダーだったであろう。さりげなくスケッチされているから、読んだときにはつい現在感覚のままに、理学士とわざわざ断ってある意味を見過ごしていた。現在の博士よりもずっと価値ある存在であった。大戦直後の私の中学校(旧制)には教諭に理学博士がただ一人いたことを思い出す。おそらくこの先生ほどの重量感があったのだろう。何を習ったかは忘れているが、息子と住居周辺の地図を作った話を雑談でしたことを覚えている。息子の地理の宿題か演習かで、目的は地図に慣れると云うことであったらしいが、先生は周辺の実測に連れ出した。「世界ただ一つ」の地図と息子に胸を張らせたという。博士=オリジナリティ追求者という図式が私の頭に植え付けられた。新しい事実に真剣になる姿勢を作ってくれた恩人である。
夜間学校であった物理学校が昼夜二部制をひいたのは大正12年で、年々の生徒数増加に対応する改革だった。教員養成の専門学校としての色彩が強く、師範学校中学校教員検定試験合格者の中で物理学校出身者が占める割合は、数学、物理学、化学では55%という驚異的な数字であった。卒業率が10%にも満たない厳しさは維持されていた。社会が、単に私学出身というだけで下位におかんとする傾向があるが片腹痛いという同窓会誌の言葉を引用してある。亡父がよく官立と私立の初任給の格差を云っていたことを思い出す。国家の戦時体制と並行するように理学から工学への指向が試みられた。昭和24年に東京理科大学が発足し、物理学校は70年の歴史を閉じた。

('06/04/23)