感染症は世界を動かす(その2)

- 岡田晴恵:「感染症は世界史を動かす」、ちくま新書、'06の読後感その2である。その1はハンセン病とペストであった。その2は梅毒から始まる。人類は悪戦苦闘の結果なんとか梅毒は押さえ込んだ。だが現役時代の終わり頃、突如新しい性感染病エイズの問題が起こり、専門ではなかったが私は懸命に勉強して、学生にエイズの本質を何時間もかけて講義したことを覚えている。エイズによって壊滅的打撃を受ける民族が出るのではないかと言われた。今恐れられている感染症は、SARSに次ぐ鳥インフルエンザ。専門家はどう見ているのだろう。
- 哲学者のニーチェが梅毒患者で最後が精神病院だったことは「アンチクリスト」で知っていた。この本で、冬の旅を作曲した頃にはシューベルトはもう梅毒末期にあり、絶望的な状態に陥っていたと知った。それはショックだった。未完成交響曲を書いていた頃既に症状が現れていたという。第三楽章以下のない未完成で終わった理由は、梅毒の進行のためとはさらに恐れ入った。私は往年のドイツ名画「未完成交響曲」の筋書き通りに、貴族令嬢との悲劇的な別れを何となく未完成の理由と思っていたからである。梅毒がコロンブスご一行のおみやげであったことは古病理解析からも証明できるそうだ。アメリカ大陸15世紀以前原住民人骨から梅毒の痕跡が見付かるのに対し、欧州からは発見できないそうだ。征服者は天然痘や麻疹を持ち込み、インディアン狩りをやり、金と香辛料を強奪した。だがインディアンの女性はこっそり別のおみやげをも船乗りや戦士たちに持たせたのである。
- 梅毒はたったの25年で世界一周を実現した。1512年京都に記録が現れるのである。私など世界一周クルーズが生涯の望みなのにいっこうに実現しそうにない。何と間のよい細菌であるか。花柳病と呼ばれ色町を媒介に日本中に広まったと思われる。だが不思議なことに、ヨーロッパとは違って梅毒は日本の歴史を変えるほどには猛威を振るわなかったと、私は思う。地理的にも行政的にも往来が不自由で伝搬にブレーキが掛かり、上下身分の制度は最上層部への感染を防いだ。イギリス王室のような悲劇は我が国には起こらなかった。である。
- 中世からルネッサンスまでのヨーロッパは性に大らかな社会であった。買売春行為も娼婦も違法ではなく、それどころか娼家は市営のものから教会経営のものまであったと云うから驚きである。王宮や貴族のためには、高級な娼婦がいて高い教養を持ち、優美な姿態と共に彼らを癒した。なんだか吉川英治の、宮本武蔵をもてなした吉野大夫を彷彿とさせる話である。彼女らの中には、国政に影響を与えるようなものまでいたという。売春産業からの収益税収が高貴な方々の大切な財源だった。なぜ娼婦が多かったかも書いてある。職人のマイスター制度。一人前になるまでは結婚が許されないのである。傭兵、乞食、巡礼など危険分子の欲望のはけ口。聖職者すら認められた買春。彼女らの商売仇は何と修道女だ。性的無償奉仕が行われていて、尼さんとは娼婦をも意味していた。それから浴場の湯女。お江戸そっくりと思われる記述で楽しくなってしまう。が、梅毒の罹患が娼婦に多いことが分かると、娼婦の追放が始まる。娼家が閉鎖され、娼婦を水に沈める。城壁の外に追い出し、鼻を削いで奴隷として植民地に売り飛ばす。浴場も閉鎖。性がタブー視されるようになる。
- ルターは一夫一婦制の励行と売春反対をうたった。清教徒はさらに厳しく性行動を慎んだ。売春を抑制し、夫婦制度を強化して、純潔教育を施すことが必要とされた。こうしてみると大陸のプロテスタント、イギリスのピューリタンとも勢力拡大に梅毒蔓延が大きく貢献したこととなる。中世のキリスト教すなわちカトリックは何しろ上述のようなザマであったから。
- 蔓延を始めた頃の梅毒は急性で骨が冒され始めると怖ろしい苦痛を伴い、地獄の責め苦となる。流行半世紀ほどの間に病原体側が変化して病原性が弱くなり、急性が慢性になり、病状も緩慢になったという。ヨーロッパの都市住民の2割が感染したらしい。正統な医師は梅毒患者を拒んだ。治せぬと評判を落とすからだという。だから患者はインチキ医師にかからざるを得ない。床屋医者とか湯屋医者と書いてある。彼らが用いるもっとも有名な治療法は水銀療法であった。患者はむしろ水銀中毒で苦しみながら死んだそうだ。日本人研究者・秦佐八郎がエールリッヒとともにネオサルバルサンを発明するまで梅毒の真の治療薬はなかったのである。この治療薬開発に至る道のりが近代医学確立のルートでもあった。
- 日本には結核は渡来人によって3世紀頃に持ち込まれた。大陸における結核には古い歴史があり、また洋の東から西まで広く分布している。牧畜によって牛型結核菌が人型に変化したと考えられている。結核菌の感染力は弱く、感染しても発症する割合は2割と低い。免疫機構が発症を押さえ込むのである。だが体力の疲弊と工場寮あるいは軍隊などの密集生活は結核を国民病にしてしまった。病原性は弱く死に至るまでの闘病生活は長いのが普通だ。日本に特効薬スプレプトマイシンがもたらされたのは戦後である。それまではBCGワクチンによる予防、療養所で安静に暮らすサナトリウム療法ぐらいしかなかった。BCGワクチンの成人肺結核予防率は50%ぐらいで、この国民病を根治することは出来なかった。
- 結核が公衆衛生問題になったのは産業革命の結果である。蔓延時代の平均年齢が示されている。ロンドンにおける1840年データでジェントルマンの家族は45歳、職人商売人の家族では26歳、職工労働者召使いの家族で16歳とある。戦慄させられる数字だ。農村ではそれぞれ52歳、41歳、38歳であった。都市と農村の差は生活環境の差である。ロンドンでは1日14-5時間の労働、川べりの湿地帯の長屋では1部屋に数家族が1ベッドに4人寝ると云った生活だった。人々は当時の慣習に従ってゴミや排泄物を屋外に投棄した。長屋の真ん中の共用トイレは年中溢れて悪臭を放つ。ちょっと裕福な人はおまる(可搬便器)を部屋に持ち込む。朝になるとそれをドブや川にぶちまける。2階に住む人がおまるの中の排出物を、屋根に投げ捨てている銅板画が掲示してある。死因の第1位は結核だった。日本は150年遅れで産業革命に入った。工場法は半世紀遅れだった。
- 最初の世界大流行インフルエンザ・スペイン風邪による死者数は、そのとき闘われていた第一次世界大戦の全戦死者の5倍になるという。スペイン風邪と云うが最初の発生はアメリカ・カンザス州の陸軍キャンプだという。症状が似ているのでかぜと云うが、インフルエンザはかぜとは別物である。インフルエンザも歴史が古く日本では平安時代に流行した記録がある。インフルエンザの怖さはRNAワールドの生命体だと云う点にある。DNA遺伝子だと簡単には変異が次世代に伝わらないが、RNAだと変異したまま次の増殖に入ろうとするから、いわば忍者ウィルスで、特効薬を発明しても、ワクチンを製造しても、その網をスルリとくぐり抜けてしまう天性を備えていることだ。エイズ・ウィルス対策が至難であるのと同じなのだ。おまけに飛沫感染空気感染するから性的接触だけが感染手段のエイズとは比べものにならないスピードで広がる。現在のように交通手段が発達し、往来の激しくなった時代では世界同時発生すると本書は警告する。
- 毎年冬季に向かう頃になると私はインフルエンザの予防ワクチンを接種して貰う。有効期間は半年だと聞いている。でも鳥インフルエンザには効かないと医者に念を押されている。その年に流行するであろうインフルエンザ株は、WHOその他の機関が協力しあってほぼ推測できる段階に達しているので、ワクチン(3種ほどの混合物)をあらかじめ製造しておき、それを接種するのである。あたらずとも遠からずの、抗原性が少々変身したぐらいのウィルスまでならこの手の免疫で撃退できる。だが大変身したウィルスにはワクチンを製造できない。製造にいたるまでに発生後半年は必要だという。株(A型)の種類はHに16種Nに9種計144種。今世界で流行する人インフルエンザは30年前のソ連かぜH1N1とその9年前の香港かぜH3N2の小異変系統のはずだ。人にはさらにB型C型インフルエンザ(あまり重要ではないらしい)がある。鶏や家禽を大量死させた高病原性のA型インフルエンザ・ウィルスH5N1がもしも人間感染能を獲得したなら、目も当てられぬ惨事に発展する。医者看護師は寝込み、救急車の運転手がいない。輸送機関が止まって食糧さえ手に入らないかも知れない。
- ブッシュ大統領は夏の休暇中に新型インフルエンザの脅威を読書で感じ取ったと云われる。米国は対策を国家戦略と位置づけた。その行動力は世界を動かし、各国とも一大政治問題として対策を取り上げている。ブッシュさんは理系ではないが敏感に危機を感じ取った。理系ではない点は同じでも、小泉首相と比べて新事態への危機感に雲泥の差がある。国家戦略に取り上げられるほどの重大性は、新型インフルエンザ・ウィルスの強毒性に理由がある。今までのインフルエンザが弱毒性で、人には呼吸器消化器疾患に留まったのに対し、今度のウィルスは全身疾患を招く。HA蛋白の解裂活性化部位の加水分解が感染の引き金であるが、その分解酵素プロテアーゼは宿主細胞から提供される。在来ウィルスは部位が唯一のアミノ酸からなるが、鳥インフルエンザ・ウィルスはそのほかのアミノ酸を含む7-8個の鎖から成り立っている。前者用のプロテアーゼは呼吸器あるいは消化器だけでしか貰えないが、後者の構造なら全身至る所で分解できるのだそうだ。
- 一旦流行が始まったなら世界には何億もの死者を出すと想定されている。追記に本年1月のトルコの鳥インフルエンザ・ウィルスについて書いてある。鳥よりも人細胞に強く結合する遺伝子変化を生じており、さらに、人体内で効率よく増殖するような遺伝子変化も起こっていたという。著者もその他多くの関係者も人型への変異を必至と見ている。
('06/03/15)