ローマ帝国の危機と克服[中]


塩野七生:「ローマ人の物語22−危機と克服[中]−」、新潮文庫、'05を読む。いよいよユダヤ民族の放浪が始まる。聖都イェルサレムが陥落し、徹底抗戦したユダヤ教徒は悲惨な運命に晒される。本書の前に私はニーチェのアンチクリストを読んだ。キリスト教を邪教たらしめたのは、イエスの本来の教えにあるのではなく、弟子たちがユダヤ民族の今や遺伝子とも云うべき本質を受け継いだためだという論難であった。私には、イエス死後四面楚(ユダヤ)歌にあった原始教団が生き残る唯一の方便であったと思われるが。イエスはユダヤ社会にあってむしろアナーキスト的立場をとっていたとする。ローマ史には彼らの遺伝子の痕跡があちこちに残っている。
ユダヤ人は民族神を唯一神に昇華させ、(アッシリアの)被征服民の立場からの開放を願う求心力源とした。ローマ帝国治下に入ってからは、イェルサレムは比較的平穏の日々を送ることが出来た。だが彼らは神を理由に、ローマ帝国の同化政策に従わなかった唯一の民族であった。ローマ帝国は驚くべき寛容さで、秩序を乱さぬことを条件に、ユダヤ民族ことに聖都イェルサレムの特殊性を容認し信仰をも尊重した。「秩序を乱さぬことを」の秩序を共産党の秩序と読めば、今の中国における宗教対策となるから面白い。でも実質はローマの方がはるかに緩く自由である。イェルサレムの住民は被征服民の分を弁えるべきであった。ローマの寛容を当然としその上を要求したときに戦火が上がったように思う。イェルサレムの住民と書いたのは、むしろそれ以外のユダヤ人の方が多かったからである。北東にユダヤ王国があり、イェルサレム攻城戦に王国軍はローマの同盟軍として参戦している。地中海沿岸各地のギリシャ植民都市には有力なユダヤ人街があった。
ギリシャ人は海外進出によりヘレニズム文化圏を確立し多数の植民都市を建設した。ユダヤ人はギリシャ人と同様に商才に秀でた民族ではあったが、ギリシャ植民地に次々に居住区を作るパラサイト的進出を足がかりにするもので、自らの植民都市を建設し経営した例はなかった。両民族は貿易事業上の競争関係にあるために何かにつけて紛争を起こし、ローマがこれまでは仲介仲裁に勤めていた。ギリシャ植民がギリシャ民族を意識する定期的行事としてはせいぜい4年に1回のオリンピックぐらいのものだが、ユダヤ植民は、ユダヤ教徒であるかぎり、どこにあってもイェルサレムの大神殿に年2ドラクマ(90円弱)の奉納金を送金する、強固な連携のある民族だった。イェルサレムが強固な城塞になっていたのはこの奉納金のおかげである。ローマは軍団の設営地も町から外して置くなど、扱いに常に慎重であった最大の理由であろう。だがそれだけ民族の動向に神経を尖らしていたとも云えるだろう。
今のかの地のパレスチナ側住民からの闘争と同じような闘争が当時のユダヤ教徒側から起こったと云えば、当たらずとも遠からずだと思う。急進派は下層民を巻き込んでますます過激になり、ローマ駆逐に乗り出し、上層の穏健派を観念させる。暴動が周辺に波及し、ギリシャ植民が危機感を募らせる。敵対感情がアレキサンドリアにまで及んだとある。皇帝ネロが送った1個軍団は一敗地にまみれる。ついにローマは立った。ネロは暴君と言われるが、外政面では優れた手腕の人であった。3軍団を指揮するのは、前分冊の3皇帝のあとを継ぐこととなるヴェスパシアヌスである。それからのユダヤ民族の語るも涙の顛末は、ヨセフスの「ユダヤ戦記」に詳しい。彼は最後までユダヤの指揮官として闘い、玉砕の筈であったが降伏し、本来なら奴隷として売り払われて当然の身なのに、ローマ軍の司令官の目にとまり厚遇を得て史家となった男である。
イェルサレムは5ヶ月の激戦の後陥落した。ヨセフスによれば捕虜はユダヤ戦役全期間で9.7万、イェルサレム攻防戦での死者は110万という。捕虜の大半は奴隷とされ、属州への贈り物や円形闘技場での剣闘士や野獣の餌食になった。16歳以下の男女は兵士への報奨金の一部であったらしい。ローマ軍の軍紀には「雄羊(攻城器の名)が活動を始めたあと」の降伏はあり得なかった。大神殿は炎上し破壊し尽くされた。ユダヤ教はもはや総本山を持つことを許されず、奉納金はローマのユピテル神殿に納められることになった。「ユダヤ人税」である。自治の制度司祭の制度も廃止され、1個軍団が常駐するところとなった。カルタゴ並みの処分を受けたと云うことである。カルタゴはそれで壊滅したが、ユダヤはさらに半世紀弱後にまた立ち上がる。そして今度こそはローマをメチャメチャに怒らせ永久追放となり世界へ離散して行く。
内乱に誘発された反乱はガリア民族にも起こった。今のオランダ地方のゲルマン系ガリア人が「ガリア帝国」を標榜して起こした反乱である。核となったのは補助兵軍団である。正規軍の重装備に比し、補助兵は軽装備という差はあるが、共にローマ軍を形成し、構成人数は同数であった。内乱にライン軍団を本国に移動させていた隙をついたのである。ガリアやゲルマニアはいまだに中小民族が割拠する状態だった。反乱の指揮者は有能だったが、ゲルマン系以外まで大同団結させるには至らなかった。ケルト語族と言ったらよいと思うが、今のフランス大半のガリア人は、昔から北東からのゲルマン民族の侵略に手を焼き、ローマ人の軍事援助に縋っていた歴史的経緯がものを云ったのである。
ローマ軍は反乱平定後驚くべき寛容さをもって戦後処理に当たった。反乱の火付け役になったオランダのバタヴィ族すら「何もなかったことにする」とされ、昔の同盟部族の地位を安堵された。首謀者ユリウス・キヴィリスさえ処刑された記録がない。著者が強調するのは反乱史に登場する人物に、ユリウス姓が多いことである。ユリウス・カエサルが自分の家門名を大盤振る舞いした結果である。ライン軍団の正規兵といってもローマ市民権をえたガリア人が大半を占める時代だった。上層下層とも同民意識は強かっただろう。ユダヤ民族との決定的な差である。それが同化と放浪離散の分かれ道になった。
皇帝ヴェスパシアヌスは動乱後の財政再建に大変だった。彼の新税に小便税というのがあるそうだ。用を足す度に税金を取られると云う意味ではない。日本では便は大小とも肥料としてリサイクルしたが、ローマでは公衆便所の小便を羊毛の脂分を抜くために利用した。その繊維業者に課した税金である。現代でもヨーロッパでは、ヴェスパシアヌスの各国読みが、その国の公衆便所の通称になっているそうな。イタリアのヴェスパシアーノはローマ皇帝ではなくて公衆便所のことだ。一昔の我が国なら冗談でも不敬罪に問われて監獄から出られなくなったろう。
ローマの財政について概要が述べられている。意外と税金負担は少ない。小さな政府で賄っているからのようだ。遺跡には大がかりな官庁街は見付からない。一般事務官僚は有給だが、高級官僚は無給だった。世界に通じるローマの道はもともと軍事用だったから軍団兵士の仕事だし、公共建造物は寄付が多く、また民間業者の入札で建設された。徴税すら民間業者委託であった。大きな出費は軍備費とパンである。ローマはブリタニア制覇続行とユダヤ駐屯軍設置により兵員数はやや増加して、28個軍団33-34万人を常備兵力に抱えねばならなかった。それにしても北朝鮮でも100万を超える兵員を抱えている現代に比べれば、あの広大な帝国領地に何と少ない人数かと思う。
次のパン。これはパンとサーカスのパンで、共和制時代からの伝統的な福祉政策である。受給者数が20万人、これは100万(自由民だけの数)都市ローマの成人男子数にほぼ匹敵するという。受給資格者は首都在住のローマ市民権者で、女と10歳以下の子供には資格はない。貰うのは粒のままの小麦で、1人1日あたり2000kcalぐらい。飢え死にだけは免れる量に過ぎない。女子供奴隷は家長の働きに依存する以外ない。皇帝はいくら緊縮財政でもこれだけは削るわけには行かなかった。今や市民集会の実質は剣闘技場になっていたが、下手をすればそこでアンチ皇帝の大合唱を被るからである。費用を計算すると軍事費の1/3と云うから大福祉国家である。ローマ帝国史には大量餓死者の記録はないそうだ。
皇帝は長男のティトゥスにすんなり皇位を譲ることが出来た。ネロ以来の皇位をめぐる惨劇に飽きた元老院が、ヴェスパシアヌスが着任早々に提出した皇帝法を既に了承していた。だが皇帝法には毒針が含まれていた。元老院は皇帝へのチェック機能を、法成立と共に失ったのである。

('06/02/20)