アンチクリスト


F.W.ニーチェ:「キリスト教は邪教です!現代語訳「アンチクリスト」」、適菜収訳、講談社+α新書、'05を読む。いつもとは違う書店に平積みされていた。この本を見て、たまには別の店に顔を出すものだと思った。ニーチェがアナーキスト的哲学者であることぐらいは、大学受験勉強で知っていたが、それ以来半世紀あまり、一度も思い出したことがなかった。彼の著書の一つが分かり易い新訳で出ているとは知らなかった。ニーチェが生きた時代は、欧米が「何か」を旗印または免罪符に世界を分割し、植民地化して行った時期である。この著作は梅毒に冒されついに狂死する2年前54才の時の作品である。そんな意味では少々眉につばが必要だ。でも近頃と言わず過去何世紀にもわたるキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の険悪な関係を思い起こすとき、ニーチェのキリスト教を一神教と読み替えることも可能かと思い、読み進めることとした。彼らは同根(聖書と言う根の)なのである。
民族の神々は自然で健康で美しい。イスラエルの神エホバは、権力や喜び、希望や正義の象徴であった。だから国内が無政府状態となり、アッシリア人に征服されたとき、彼らは民族を救ってくれなかったエホバを棄てるべきであった。だが彼らは神を全く異なるものに作り替えてしまった。一神教化したのはその頃という。ユダヤ民族は「選民」になった。肉体は征服されても心はという観点に立ったのであろう。なんだか悲恋物語を聞くようである。神は淘汰を教える自然とは結びつかなくなり、幻影的精神界での罪と罰という僧侶の道具になった。(絶対)神の意志というシステムを発明し、神聖な書物、聖書をでっち上げ、猿芝居の筋書きにする。僧侶たちは自分たちが望むものを、「神の意志」として取り上げる。しまいには、人生のあらゆる場面で、僧侶が不可欠になった。結婚、出産、病気、死。僧侶たちは変な儀式を行って、人から金をゆすり取ろうとする。この僧職政治に反抗したのがイエスだという。彼は下層民や仲間はずれ、犯罪者たちを煽って、ユダヤ教が支配する社会を攻撃した。彼は単なるアナーキストである。彼の伝記が新約聖書だと思ったらいいという。
「新約聖書」の世界はほとんど病気。社会のクズや神経病患者、智恵遅れが、こっそり皆で集まったような、まるでロシアの小説のような世界なのですと書いてある。(伝記は伝記だが)初期のキリスト教会がユダヤ教の神学者に対抗するために、都合のいい「神」をでっち上げ、「再臨」や「最後の審判」といった、イエスの教えとは全く関係のない言葉を、何のためらいもなく使うようになっていったのですと。イエスは「罪」「罪の許し」「信仰」「信仰による救い」といったユダヤ教の教えを全て否定し、精神的なものだけを「真理」とした。「儀式」も「お祈り」も意味のないものであった。「神」「神の国」「天国」「神の子」などというキリスト教会の考え方は、イエスの教えとは全く関係がないという。弟子がイエスを理解できなかったのである。それどころかイエスをネタに(ユダヤ人である)自分の教え、自分の飯の種を広めようとしたのが現代のキリスト教だという。ユダヤ人の上流階級がやり玉に挙がり、「報復」「復讐」というイエスにはない教義が導入された。その一番の張本人がパウロであった。唯一の神、唯一の神の子という発想は、所詮下層民の恨み辛みから発生したタワゴトに過ぎません、キリスト教は諸悪の根源ですとニーチェは痛快に断言する。
ここまで読むとなんだか創価学会との類似性が頭を過ぎる。創価学会が初めて私の目に留まったのはもう半世紀から昔の新聞情報であった。「戦闘的」折伏軍団として既存の地方寺院を荒らしているといったニュースであったと思う。原始キリスト教対ユダヤ教の姿に重なる。当初は日蓮正宗の支援団体の姿をしていたが、やがて宗門から破門され今は独立の宗教団体の筈だ。世俗的大衆型宗教を説いているように思える。イエスとパウロの関係に当てはまるのではないか。そもそもの支持母体が未組織下層労働者という点もにている。今や日本人の7人に1人は創価学会シンパだという。イエス死後1-2世紀経たローマ帝国と同じだ。
新約聖書にはヨタ話が充満している。処女懐妊ぐらいは知っている。その最たるものなのだろう。いろいろ引用されているが、私のような異教徒には無縁の初めて目にする話ばかりだ。神憑りな「真理」を独占することで「現実の世の中」を空蝉泡沫の現象にしてしまった。こんな誇大妄想の精神病棟的情況に導けた背景に、数百年のユダヤ民族の歴史がある。ユダヤ人とキリスト教徒は分裂しましたが、やったことは全く同じこと。キリスト教徒とは、ちょっと自由になったユダヤ人にすぎないのですと宣う。人間は外の世界を覗いてはならない。自分の内面を覗くべきであるという姿勢は、現実をありのままに理解し研究する科学を追放してしまった。暗黒の中世として学んだ話だ。偉大なギリシャ・ローマの人間精神はルネッサンスまで甦らなかった。この点も我々の常識に一致する。
ニーチェにかかると社会主義も民主主義もケチョンケチョンである。人間の自由闊達な活動とその結果に、むやみな制限を加える思想は全て排除の対象になっる。小泉首相の所得格差拡大是認論などは、ニーチェには当たり前の話と受け止められるであろう。ユダヤ教はまさに悪の根源となっている。孔子もマホメットもプロテスタントのルターも、プラトンもカントもルソーも、大凡著名な宗教家神学者哲学者ことごとくが彼の批判を受けている。思想の健全性で部分的ででもあれ支持を与えられたのはゾロアスター教、バラモン教・ヒンズー教のマヌ法典、それから仏教である。仏教は「罪に対する闘い」ではなく、「苦しみに対する闘い」を説いているとして評価した。イスラム教は「海賊」十字軍の略奪対象になるほどの文化を発展させたとしてかなり好感を持って評論されている。
日本のキリスト教信者は1%に過ぎない。隠れキリシタン、天草の乱、殉教者など数々の迫害の歴史は、今では信教を鼓舞するエネルギーになりこそすれ躊躇させる理由にはならない。敗戦と共に占領軍を背景に宣教師が活発な宣教活動を行った。だのにである。ニーチェの本を読んでこの疑問を振り返ってみる。仏教神道が強力であったからではない。後者などニーチェに云わせば敗戦で死んだ筈である。日本のキリスト教は戦闘性を失った完成された姿で、現世利益に触れようとしない、上層階級にたいする観念的論理として入ってきた。その意味では共産主義と同じだ。それが浸透しなかった一番の理由ではないかと今は思っている。

('06/02/14)