悪名高き皇帝たち[一]


塩野七生:「ローマ人の物語〜悪名高き皇帝たち[一]〜」、新潮文庫、'05を読む。ここしばらくこの物語の文庫本化が遅れていた。著者は今AD4世紀頃の第14巻目を書いているそうだ。この「悪名高き・・」は第7巻目でADに入ってからの半世紀分である。塩野さんの影響もあるのだろう、ローマ帝国を取り上げたプログラムがTVを賑わす。先々週はBS-6で「東ローマ帝国〜繁栄と滅亡 皇帝たちの軌跡〜(第3話)帝国の黄金期に潜む陰謀と策略」をやっていた。10世紀から11世紀に掛けての話だ。塩野さんの物語は、もし東ローマにまで及ぶのであれば、完成まであと少なくとも10年は掛かりそうだ。ギリシャ語スラブ語にアラブ語まで入ってきて、従来以上に書き上げるのに困難が予想される。それまで私は生きておれるだろうかなどと余計な心配をしている。
ローマ帝国の通貨は金銀銅の三貨建てで、我が国の江戸時代と同じだ。兵士の給与が、初代皇帝アウグストゥス死去と共に起こった地方軍団蜂起に関連して表示されている。蜂起の理由に給与改善が挙げられていたからだ。年給225デナリウス、退職金3000デナリウス。デナリウスは銀貨である。1デナリウスは銀3.4gだから年給は765g、退職金は20年勤めて10.2kgだ。江戸時代の日本通貨で現在価値に換算してみる。技術革新前で最もよく理解されている通貨だからである。秤量銀貨の明和五匁銀と計量銀貨の明和南鐐二朱銀の平均値で換算すると、だいたい銀90gが金1両(約10万円)だ。時期は18世紀後半中頃で政情は安定していたから、程良い換算が期待できよう。
ローマの平兵士は年に8.5両だ。せいぜい16俵1人扶持だ。住は侍と同じくお上持ちだったろうが、衣食はどっち持ちだったのだろう。最低の御家人よりもっと待遇が悪い。イタリア半島勤めの近衛軍団兵は22.5両。これなら南町奉行所の筆頭同心ぐらいである。でも江戸では長屋住まいの町人は3両/人で何とか住んで食えた。地方はもっと安かった。長屋の町人に比べればまだましな生活であったろう。退職金1133万円、13.3年分を貰い、現地妻と子を引き連れて、新天地であとの平均余命20-25年ほどを暮らす。悪くない。侍には退職金はないが、家禄はそっくり息子に渡せた。国家の支出から云えば兵士の年俸が14.165両であった。26俵2人扶持相当。これぐらいの侍なら御家人にもいたのではないか。
第二代皇帝ティベリウスは給与改善を断固としてはねつけた。アウグストゥスから引き継いだローマ安定化の道に、税金の値上げだけはしないという方針があった。だが、国家の財政とは、我が国の年々の各省庁の予算請求を見ても分かるように、突出した新規支出先が無くても、なぜか増えて行く。1民族国家の我が国ではすぐ消費税を上げろとかサラリーマンの控除を減らせとかの議論になるが、多民族国家のローマ帝国では増税は破綻への道だと両皇帝は理解していたのである。せめて属州税を上げようとの主張に対し、ティベリウスは「あなた方は羊(属州民)を、殺して肉を食すよりも毛を刈りとる対象として考えるべきである。」と言った。百姓は生かさず殺さずにとした徳川時代の施政者と何と基本が一致していることか。覇権者ローマが10%の属州税と引き替えにパクス・ロマーナを実行して、外敵からの安全を保障してくれる方がどれほど有り難いか。覇権者から見れば、最小の軍事力で国家を維持するために内乱の原因要素は注意深く除去せねばならぬ、その最重要要素が非増税だというのである。
ティベリウスは財政建て直しに心血を注いだ。軍団蜂起の危険な現場に、まだ若い息子たちを敢えて出馬させた。伝統の人気取り政策・公共事業も絞りに絞った。下層民に対する福祉政策の「パン」は削らなかったが、皇帝がスポンサーとなって「サーカス」を開催することはなかった。そのため剣闘士たちから苦情が出るほどだった。元老院議員の財務救済の条件もグンと厳しくなった。平民対象のバラマキである賜金も廃止した。彼のケチという評価は定着した。しかしと著者は云う。経済がそのために不景気に向かうことはなかったと。50年も前に、ガリア人はローマの笠に入ってからゲルマン民族の侵略を恐れる必要はなくなり、狩猟民族であった彼らは農耕民族に定着した。これは史実だが、各所で安全が定着をもたらし、経済が活性化して税収に貢献すると云った循環がじりじりと再建に役立ったという。公共事業費削減でも属州の道路などのインフラ整備までは削られなかった。消費税の話がある。当時は1%だった。パルティア王国対策で新たな属州が出来たとき、属州税増加に見合う分として0.5%に引き下げられるが、2年も経つと元に戻されてしまった。
ティベリウスの時代のローマは安定した超大帝国であった。正面切って敵対する相手は流石に現れなかった。しかしライン河東岸ドナウ河北部の勇猛果敢の蛮族ゲルマン民族と、ペルシャ文明の後裔パルティア王国は、ローマとは歴史的に対立と戦闘を繰り返してきた油断のならない仮想敵であった。ティベリウスは権謀術数のすえライン河ドナウ河を帝国の防衛線と定め、ゲルマン諸部族とは「クリエンテス(英語のクライエント)」関係を結ぶ。親分子分の関係だそうだ。属州税の支払い義務はないが、ローマ軍団に補助兵を送る義務を科せられる。ライン河東部には再々遠征軍を派遣したが、正面戦争では勝っても、ナポレオンのロシア遠征のように、冬将軍が来ると冬営地への引き上げ行進中に、ゲリラ戦で痛手を被ると言う戦闘の繰り返しであった。個人戦闘では長身のゲルマン人にやられがちであったと言うことだろう。
権謀術数は何もゲルマン相手に限らない。ローマ人は、遠征の度の勝利に今やゲルマンを覇権下に納めたと誤解していた。その地を撤退して元通りの防衛線を引くのだから、たいそうな騙しのテクニックが必要であった。日露戦争終結前に、大勝に湧く国民に低い講和条件を納得させる苦労のようなものがあったに違いない。パルティア王国には、彼らを取り囲む属州同盟国との絆を引き締めることで対応した。右手に剣をかざしながら外交力であとの何十年かの平和を保った。国家にとっては軍事力は必要悪なのである。
二人の息子が死んだ。長男ゲルマニクスは33歳、次男ドゥルーススは34歳で皇帝64歳のときであった。共に軍人として並々ならぬ実績があり、次期皇帝としてローマ市民から嘱望されていただけに、一族特に皇帝の嘆きは計り知れぬものがある。ゲルマニクスの死因は今ではアレキサンダー大王と同じくマラリアであったとされている。しかし彼が皇帝の養子であり次男が実子という家庭の事情や、突然の死に暗殺の影を被せる当時の政治事情が、複雑な影響を政界に与えた。しかしティベリウスは私情を挟まぬ公正な判断で平和理にことを解決した。
皇帝の宗教観がドゥルイデス教の処置に絡めて解説されている。後世のキリスト教への対応への序文として覚えておくとよい。ドゥルイデス教とはガリア民族の民族宗教である。人身御供を許容する宗教であったそうだ。民族内には祭司階級が存在し、宗教の他に司法と教育を一手に握っていた。先代皇帝は司法を属州総督の手に移し、ローマ市民が帰依することを禁じた。ガリア民族の指導階級はローマ市民権を与えられたから、祭司階級は民族への影響力を大いに削がれたのである。彼らが起こした反乱を機に、ティベリウスは一気に祭司階級をローマ帝国から追放してしまう。ローマではエジプト宗教もユダヤ教も完全な信教の自由を謳歌していた。彼らは、宗教の守備範囲を守って、皇帝の守備範囲にまでは侵略しようとしなかったからである。信教の自由とは、社会不安の要因にならぬ限りというのが指導層に一貫した宗教観であったと書かれている。ユダヤ教徒の兵役免除、神殿への奉納の義務さえ認められていたという。
ローマの皇帝とは、支那の皇帝を思い起こしていては理解不可能な存在であると強調している。皇帝への就任はもちろんだが、人事をはじめとするいかなる判断であってもいちいち元老院の承認手続きが必要である。現在で云えば、アメリカ大統領と、野党が過半数を占める議会との関係が、その頃の皇帝と元老院の関係だったとしている。なお支那(シナ)は侮蔑的表現のように云われた時代があるが、広辞苑によると、日本では江戸中期から使っているそうだ。イタリア語辞典にはCina(la.)と載っている。Cをチと聞くかシと聞くかの差で、China(E.)とChine(F.)になる。シナと書いてはいけない理由はなさそうだ。

('05/09/27)