子どもたちの8月15日

- 岩波新書編集部編:「子どもたちの8月15日」、岩波新書、'05を読む。太平洋戦争敗戦より60年経った。暦が戻る記念すべき日にと思って選んだ本である。表題の子どもたちは当時4歳から12歳であった国民学校世代を指すと巻頭言に書いてある。その世代の有名人33名が記憶を辿る。私は11歳6年生だった。丹後半島の寒村で敗戦の日を迎えた。集団疎開児童であった。我が家のあった京都市は幸い戦災を免れた。子孫のためにも、一度はあのころの記憶を纏めておきたいと思っていた。この本をペラペラとめくるだけで、思い当たるエピソードが随所に出てくる。読んでいるうちにほとんど記憶から抜けかけていた話が蘇ってきたりする。表題は「・・・の8月15日」となっているが、その日一日ではなく前後何ヶ月かの思い出が書き綴られている。
- 後年になって親は血筋を残すためだったと云った。私一人を疎開に出した理由である。当人は深刻な思いもなく、遠足気分で喜々として出かけていった。だが、初っぱなから集合時間を間違えるというトラブルを起こしていた。本人は学校の通知を正確に伝えたのに、親がそんなに早いはずはないと云って聞かなかったのである。親(父)には言い出したら聞かない頑迷なところがあった。私が約束時間に厳しくなったのはそんな経験からであろう。4月だというのに、村に入る峠道には残雪があった。初めて遠くへ来たと思った。宿舎はお寺だった。我々は寺子になったのであった。学校の近くに浦嶋神社があった。国立歴史民俗博物館の常設展にそのお宮の祭礼絵巻(模写品)が展示されている。浦島伝説の洞穴もあった。昔は賑わった土地だったのであろう。
- 疎開先では三食をまともに食わせて貰った。今思うと村人のおかげである。半農半漁の村だった。燃料油不足のせいであろう(魚を捕っても輸送手段が無いとも云っていた)、時たましか漁船は沖に出て行かなかったが、捕れた魚のいくらかは疎開学童に回してくれた。京都市内ではもうほとんど食べられなかったから、たいそうなご馳走であった。それでも食べ盛りであった。何でも口に入れた。椿の花には、甘いと感じるほどの蜜があるのを知ったのはその頃である。蜂より先にそれを見つける。桑の実も食べた。土地の子は蚕や蜂の幼虫を勧めてくれた。私はよう食べなかった。失敗は藤の実だった。寺に藤の大木があり、たくさんの実を付けた。焼くと香ばしいおやつになる。これも土地の子に教わった話である。我々は食べ過ぎた。ほとんどがその晩腹痛で下痢をし大騒動だった。学校の勤労奉仕で川の堤防に豆を植えた。授業は午前だけで、午後は何かの勤労奉仕だったのである。村人は大水のときの堤防決壊を恐れて批判的であった。
- 食糧事情は敗戦後我が家に引き上げてからの方がひどかった。それでも焼け出された他の都会民に比べれば条件がよかったと思う。近隣農家との物々交換用の資材があったから。母の着物は子沢山の養い代として次々に消えた。タケノコ生活と言った。戦中から塀の脇まで利用して食糧自給に勤めた。買い出しに農家を廻り、ついでに稲田のイナゴを大量に捕まえて袋に入れ、脱糞させた後、こんがりつけ焼にして食った憶えがある。配給だけでは生命の維持は出来なかった。豆粕がよく配給された。家畜の飼料だと知ったときは悔しかった。闇を拒否した裁判官が、栄養失調で死亡した記事を見たのは戦後である。闇市にも親には内緒で時折足を向けた。買い食いするほどの小遣いは持たなかったが、何とも刺激的な雰囲気に惹かれて出かけたように思う。
- 面会日があった。交通事情の悪い中を親がはるばる訪ねてくる日である。どこも来るのは母親であった。私だけ唯一例外で父が訪ねてきた。当時の社会通念では父母の守備範囲は非常にハッキリしていて、外の「七人」の敵には父が当たり、母は家庭をしっかり守る。父は建前の人であり、母は本音の人である。向田邦子さんのドラマにはそんな仕組みがややコミカルに明るく描かれていて、私のかっての家庭を思い出させるものだから、彼女が事故死したあとでも、原作向田邦子となっているとほとんど欠かさずに見たものである。彼女のドラマでも、父は煙たい存在で、母が父の前ではチリチリしている姿がよく出ている。私は父が来て正直狼狽した。確かに子沢山で幼子まで抱えているのだから、母は来難かったであろう。でも私の常識には父の訪問はなかったのだ。2泊ほどして帰っていった。あまり親子の会話は弾まなかったように記憶する。ひとつ、朝の畑仕事を見学していた父が、私の仕事ぶりにクレームを付けたのを覚えている。誉めたり煽てたりは出来ない人であった。寮母さんの父に対する評判はよかった。
- 後日談がある。母が二人だけの時「お父さんが持って行ったお菓子はおいしかったか」と聞いた。物資のない中を工面して、母は面会日にいろいろと私の好物を揃えてくれたらしい。親が持参した菓子は全員で分けるという建前になっていた。面会日によってはその分配に預かることもあった。こっそり我が子に余分の菓子を手渡して行く母親も目撃していた。しかし私には父からのものとしては何も渡らなかったのである。私は嘘でも「美味しかった、有り難う」とでも云うべきであった。事情を云わなかった父を母が問いつめたかどうかは知らない。多分何も詮索がましいことはしなかったであろう。家長の権限は絶大だったから。それとは別に、まだ頑是無い弟妹が、母の作業をどう見ていたのかが未だに気に掛かる。当時都市では、もう甘い菓子など簡単には口に入らない状態だったはずだから。
- 戦争は身近な存在であった。4年生頃だったと思う、学校から電車を乗り継いで陸軍病院へ戦傷病兵の慰問に行ったことがあった。歌を歌ったぐらいだったと思う。でも兵隊さんにえらく歓迎されておみやげまで貰った。従兄弟が海軍軍医で出征した。我が家に残っていた伯父の形見の短剣を吊して行った。鞘の飾り金具の錆具合は所持者の軍歴を物語る。普通は錆びない金具の真鍮も、塩気の多い雰囲気ではさび付くのである。指揮刀も残っていたが、肝心の刀身のメッキが地金の錆びに浮いた状態だったので、使い物にならなかった。恰幅もよかった従兄弟は、伯父の短剣のおかげでもてたと後日になって漏らしていた。父の乗った商船が潜水艦の雷撃で沈没したが、父は救助された。敗戦間近になると、陸軍の兵士が講堂に寝泊まりするようになった。赤い屋根の国民学校なので、いい目印になるのであろう、舞鶴軍港を爆撃した敵機がよく散歩にやってきた。周辺に高い山はなく、平地の真っ只中にあるので、練習紛いに超低空飛行を試みる敵もいた。人影が見えると機銃掃射をやる。超低空で来る敵機は警報無しだから避難のしようがない。懸命に廊下に飛び込んだ瞬間に、頭上を敵機が飛び去るようなケースもあった。死後の世界を思いめぐらせたことを思い出す。
- 疎開先の学校には2年制の高等科があって、その最上級生が全校の生徒を支配していた。と言っても我々との接触は掃除時間だけだったが。はじめは物珍しい存在としてチヤホヤしてくれたが、やがて飽きると並みの存在へ格下げされた。いじめられたとか、いたぶられたと云った記憶は全くない。縁故疎開も含めて疎開児童はだいたいに学業はクラスの上席を占めた。先生方は目を掛けてくれていたように思う。若い女先生が、担任でもないのに、我々数人を下宿先の部屋に呼んでくれたことを思い出す。集団疎開児童は2組に分かれていた。私の組の引率は女先生で浜辺の寺に入り、男先生の引率した組は山中の寺だった。だいたい腕白連中は男先生の組に入っていた。その腕白どもが一度集団脱走した。すぐ連れ戻された。私の組ではそんな計画すら持ち上がらなかった。
- 登校下校は団体行動だった。寺子だけで1グループだった。週番が二宮尊徳像の脇にいて、彼らに通行許可を貰わないと校門を通れなかった。学校の軍隊式作法の唯一の記憶である。よくバイパスである山畑道を行った。寮母は2人だった。寮母の子どもを除くと児童は10人あまりだったから、贅沢な布陣であった。年の近い女の子との共同生活は初めてであった。おじゃみに縄跳び、手鞠もあったかな、童歌やら未だに意味不詳の外国語らしい歌など新鮮な経験であった。それでも年少者の中には親が恋しくて泣く子もいて、切なかった。お寝小をする子も多かった。私も2-3回やった。でもうまく隠し終えた。私は副団長だった。
- 8月15日に天皇陛下の玉音放送を聞いた。ほとんど聞き取れなかった。大人たちから戦争に負けたと聞かされた。気が弛んでしまったが、家に帰れるという喜びの方が大きかったように思う。女先生は「英語を教えたい」と云っていたが、結局は出来なかった。この先生は、大きくなったら軍人になって陛下のために死ねとか、少年航空兵になって神風特攻を志願せよなんて扇動を一度もしなかった。
('05/08/28)