幼児期

- 岡本夏木:「幼児期−子どもは世界をどうつかむか−」、岩波新書、'05を読む。「幼児期」とは、個人差がかなりあるが、一般に歩行が自由になり、急激な言語獲得が始まった時期から、小学校入学までの期間を呼ぶ、年齢的には満二歳前後から六歳前後に至る約四年間だという。親や家族を頼り切ってはいるが自我に目覚め始めて、いわゆる可愛い盛りの年齢だ。私の住むマンションの中庭は築山、人工の小川、木立を走るサイクリングロードにブランコ、滑り台、ジャングルにお砂場と、この年頃の子供にはもってこいの公園になっていて、午後の明るい間はとても賑やかである。たいていは保護者つきで来ている。彼らを暇なままに観察していると、遙か昔になった我が子の幼い頃の、きれい事ばかりではなかった格闘の日々が思い出されて、ほほえましい。今はもう孫の時代に移り、それも過ぎようとしている。反省を込めて発達心理学者の総括に耳を傾ける気になった。
- 教育に三育あり。知育、体育、徳育。「子供は親の背中を見て育つ」、学校では親を先生と呼び替える。私が先生であった頃は、もうかなり崩れかかってはいたが、まだ、先生とは道徳の規範を地で行く人という社会概念が根強く残っていて、家を一歩出ると常に人の目を意識して歩いたものである。徳育=しつけ。子供に対する道徳上の積極的関与がしつけであった。私は「しつけ」を漢字でどう書くのか詮索したことはなかった。でも「躾」らしいことはよく行くうどん屋で知っていた。従業員教育の標語として張り出してあったからである。護美箱式で、何となくわざとらしい字だ。漢和辞典で調べてみた。国字なのだ。「しつけ」は着物を「仕付ける」、仮縫いして大凡の姿に仕立てると言う意味で、著者は「仕付けの糸をはずす」ことを目的にして「しつけ」が行われると云っている。幼児のしつけは、オ母サンに代表される愛情関係・信頼関係が確立された環境と幼児の葛藤と表現され、幼児は他者の「心の理解」、「言語化」による「説明」や「折衝方法」の獲得、「事実」と「虚偽」の区別などを通じて、我々世代の云う知育に深く関係していると説く。
- 著者は「オ母サン」環境をさほど深くは説明していない。土門拳:「筑豊のこどもたち」「続・筑豊のこどもたち」にるみえ姉妹の写真がある。幼児期に母に去られ、酒がないと不機嫌で怖ろしい日雇い炭坑夫の父と3人家族だったが、父が死んで児童相談所に預けられる。だがその晩に彼女らは元の家へと脱走するのである。学校もろくに出席できなかった生活のどこに「オ母サン」環境があるのか、外見だけでは理解できない。最近時折見かける幼児・児童の虐待死事件でも、自分の唯一の居場所として、子供が家庭にしがみついている姿が報じられる。死ぬほどの「しつけ」を受けても、子供には「オ母サン」環境であるのか。こんな親のしつけは一種動物の調教である。子供にとっては親への屈辱に満ちた服従の歴史である。本当のしつけは、子供が「誇り」と「自尊心」をもって受け入れるものでなければならない。本当の「オ母サン」環境では、お母さんを喜ばすことで次の愛情を引き出す積極的意義を自主的に感得する。大人の不合理や矛盾は4歳になるともう意識され出すという。子供は、「好きな人」が無意識に演じる不完全性を、現実の人間現実の社会のはらむ、やっかいな性質として理解し成長して行く。こう云われると凡人はなんだか救われる。
- 孫が盛んにジャンケンを挑んでくる。幼児期も終わりに近づいた孫である。こちらはすぐ飽きて辟易してしまうが、幼児の発達段階においてたいそう大切な遊びの一つだそうだ。解析図を見ると様々な因子がジャンケンに関わっている。社会の偶然性や公平性、組み合わせや確率理解への第一歩になっているという。我が子が赤ちゃんから幼児にさしかかった頃、母親の口に食べ物を匙で運ぶ仕草を繰り返し繰り返し、可愛いさ余ったのを思い出す。オ母サンを真似て自己と他者を区別する第一歩だという。やがてフリをする相手が広がって運転手やらスチュウワディスやらいろいろ出てくる。ままごと相手に招待されたりすると大変である。幼児の想像するシチュエーションに、ともかくも填り込まなければならない。幼児は遊びを通じて対人関係を学び、自分の居場所を探り当てる。
- 遊びの中から幼児は算術的論理操作を発達させて行く。TVの自然番組などで見る哺乳動物の幼児期は、特にサルに関しては人に似た場面が多い。でも算術的論理になると人独特のもののようだ。特徴をつかんだ系列化が第一歩だ。京大霊長類研究所のアイちゃんだったかは相当な知能の持ち主で、数も数えられる。だけども加法性とか乗法性、さらに関数関係把握になってくるとどこまで対抗できるのか聞いてみたいものだ。「這えば立て、立てれば歩けの親心」で遊びと無関係に、九九を幼児に学ばせて得意になったことがある。これは親の「子供向け文化」である。だがその子は、文章題になると、九九がなかなか事象と結びつかなかった。子供の自主性のある文化でないと、本当の心の発達に結びつかないのである。
- 「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん」という梁塵秘抄の言葉が引用してある。遊びを子供の本質として捉え、しかもそれに共感する「大きな子供」として大人を発見するのが、この本の基本的姿勢のようである。そのためには生物学や人類学、文化史学や社会学、教育学などの広い共同研究が必要だと云っている。沖縄大学院大学の設立に、利根川先生が専門の壁を取り払った生命システム研究のような目標を掲げておられると云う記事を新聞で見た。専門化しすぎて門口が狭く成りすぎた学問のインテグレーションを呼びかける声はあちこちで聞かれるようになった。
- 自己と他者の間に情報機器のディスプレイが割り込んできた。これもTVからの知識だが、鏡に映った自己をおサルぐらいになると自分の像と認識するそうだ。まして人の幼児はすぐに気がつくであろう。この本にはそれが満2歳ぐらいからだとしている。この程度なら心配ないが、現在の情報化社会が否応無く持ち込む大量のバーチュアル・リアリティは、人類にとって猿人以来400万年の歴史の中で経験したことのない未知との遭遇である。幼児の間に道具としてのコンピュータに親しませる教育はあっても、精神発達に及ぼす影響を重視した教育はまだ緒についたばかりらしい。将来の対人関係に不可欠な生の感覚の経験を阻害されたら、どんないびつな人間を生むかは、一昔前なら考えられなかった無機質犯罪の多発に象徴されている。社会が自己愛型化する心理学的理由になっている。幼児の認識と表現には生身が介在せねばならぬ。その重要性を、今日ほど深刻に思わねばならぬ時代はなかったろう。幼児は保育所か幼稚園、あるいは祖父母任せで、自分は憲法のいう「能力一杯」の社会行動に埋没するような両親は落第なのだ。
- 人を人たらしめる最大の特徴は言葉の使用である。我々大人は当たり前のように使っているが、幼児が五感感覚や行動と言葉を結びつけ、それを媒介に高次の思考に繋げるという操作は、この本にも書いてあるように、たいそう複雑な単位ステップの積み重ねである。映画「奇跡の人」で全盲全聾のヘレン・ケラーが、地下水汲み上げポンプの水に触れながら、ウオーターを不明朗ながら発音するのに成功するシーンがある。幼児が最初の最初に言葉を覚える事情は似たようなものだろう。やがて言葉の抽象性とか象徴性に気付く。コンピューター・ソフトが、複雑な目的のものほど、何重にも基盤ソフトを重ねた構造になっているのと同じで、幼児は頭脳構造を階層化して行くのであろう。この重層化を少しでも早く身につけさせようと焦っているのが現代社会である。「三歳では遅すぎる。」具体的対話である一次的ことばをバーチャルの映像で補おうとする。一次ことばが人間として生きて行く基盤なのに。それから作られる二次的ことばは形式的で皮相的だ。短絡的な独りよがりの行動を生む原因に繋がる。学力低下対策論や心の教育論に、幼児期のことばの貧困化を取り上げねばならぬと言うのが著者の主張だ。
- 「恵まれすぎ」環境だが、おとな社会適応のための知育を容赦なく迫られる現代の幼児は、人間疎外の空洞人格を持つに至る、本来の幼児期をいかに再建すべきかと言うテーゼは、心に重く迫った。
('05/07/13)