ユリウス・カエサル・ルビコン以後(中)

- 塩野七生:「ローマ人の物語〜ユリウス・カエサル ルビコン以後[中]」、新潮文庫、'04を読む。「我来たり、我見たり、我勝てり」から「ブルータス、お前もか」までの歴史である。前者は「来た、見た、勝った」と訳されている。原文では「VENI,VIDI,VICI」と主語が省かれているらしいから、この方が忠実な訳のようだ。クレオパトラを助けたアレキサンドリア戦役の後、カエサルはポンペイウスの拠点の近東、ギリシャ地区を少数の兵力で制圧した。後者は引用されていない。簡単に56才前の3月15日に暗殺されたと記載されている。元老院での出来事であった。
- 我々が云う帝国は、皇帝とか天子が絶対的権力を持って統治に臨んでいる印象の国家である。大日本帝国は立憲君主制であったが、戦中の印象は、天皇の権威を傘にした軍の有無を云わさぬ統治で、まさに帝国であった。しかし帝国のもともとの意味はそんなものではないらしい。古代ローマはカルタゴを征服したときすでに帝国であった。政治形態は元老院中心の共和制である。帝国とは覇権国という意味であった。覇権国が、調停、裁定あるいは強制によって地域の恒久的な安定平和を与える。世界史には、勢力均衡の隣国同士が話し合いで平和裏に問題解決した例が全くないわけではないが、たいていは騒乱戦火の果てに死屍累々の終末になる。隣国との平和は、きれい事だけでは進められないものである。カエサルはローマ内政の問題を抱えながらも、覇権国体制確立のために外征を繰り返す。
- 外征の重要な一つがアフリカ戦役であった。ポンペイウス派残党が、かのヌミディア王国の支援を受け、今のチュニジアで挙兵する。ヌミディア騎兵の輝かしい戦歴は[上]で記述したとおりだ。カエサル軍は歩兵も騎兵も数では圧倒的に不利であった。しかしヌミディアに対しては、その西隣のマウリタニアに「遠交近攻」の策を持って牽制し、残党軍をうまく野戦におびき出すことで壊滅させた。残党軍は王国軍と二手に分かれていたために、ヌミディア騎兵は何ら実力を発揮することなく終わり、ヌミディア王は逃げ込もうとした自国のザマの城門すら閉じられて自決した。カエサルはここでザマ見ろと思ったであろう。私は「リビアの巨大ローマ遺跡」の中でレプティスを書いた。アフリカ戦役で、唯一最初からカエサルに城門を開いた都市として、この名が出ている。
- ポンペイウス派残党の小カトーは、ローマ市民に対するカエサルの手厚い寛容の精神を知りながら、カエサルに跪くのを潔しとせず、自刃し、そのために後世で自由人の権化として賞賛されることとなる。カエサルの寛容は徹底したもので、ポンペイウス派の人々は処罰、追放、財産没収など、普通なら当然受ける賊軍的処分を一切受けなかった。小カトーは元老院議員の身分のまま死に就いたのである。寛容で助かったブルータスが、カエサル暗殺の主役を務めるのはまことに歴史の皮肉ではある。しかし帝国確立に、これほど貢献した精神基盤は他になかったであろう。自刃を前にした小カトーの饗宴が紹介されている。現代あちこちで開かれるシンポジウムの語源はローマ社会の饗宴で、寝台型の椅子に横になった姿で料理や酒を楽しみながら、テーマを決めて論じあう席のことだと書いてある。我々のシンポジウム特に学会関係(医系以外)では、酒と料理が欠けている場合がほとんどである。識者に金がないのがいいことかどうか。ちょっと気になる。
- 続いてスペイン戦役でも勝利を収め、ローマでカエサルの凱旋式が行われる。式の中身もさることながら、埋め草的雑記事が面白い。ヒットラーにナチス親衛隊が右手を挙げて敬礼する。あれはムッソリーニから始まったそうで、そのムッソリーニはローマの凱旋式から学んだそうである。行列の先頭は元老院議員団だそうだ。国家のシビリアン・コントロールの象徴であったという。日本でも戦後国会議員が先頭を歩くデモがいくつもあった。反米デモで社会党議員が、アメリカ兵に糞尿をぶっかけられて、臭い思いをしたという記事があったことを忘れずにいる。カエサルの足を引っ張ることの多かった元老院議員たちは、さて市民からどんな歓迎を受けたのやら、想像すると楽しい。その一方、こんなトピックスを読むと、我々現代日本人の精神的祖先はローマ人で、中国古代文明人でも、ましてや中世や近世の中国文明人でもないことをいよいよ強く感じる。凱旋式では、将軍以下の軍人にはもちろんのこと、出迎えの市民にまで大変なもてなしが行われた。俺が支えている国と皆思ったのだろう。常に市民が政治に意識されていることがわかる。
- 2/13のNHKスペシャル「あなたは人を裁けますか」を見た。司法改革の結果、4年後には日本は参審制になって、刑事事件裁判に、市民はくじ引きで選び出され、裁判員に任命される。今までは司法専門家に全てお任せで、市民は論評しておればよかったのに、時には死刑を言い渡さねばならぬ当事者になってしまう。世論調査によれば、日本人の2/3は内心お断りしたいと思っているそうだ。観客民主主義の一つの現れだと思う。ローマの裁判は陪審制だった。職業裁判官が参加する参審制よりなお重い。しかも刑事犯だけではなく政治犯も含め全てを裁く。お上(神、施政者、官僚)のお告げに頼らずに、国家だけではなく市民個人の運命をも市民が自分の責任で決める。本物の民主主義を2000年以上昔に実行していた。カエサルは陪審員の構成改革を行っている。長らく元老院議員の独占状態であったのが、ポンペイウス時代に元老院議員、騎士(経済界)、平民の3階級に1/3づつと改められていたのを、さらに中産階級の上クラス以上なら誰でも資格を持つこととした。ローマを動かす実体に敏感に対応した権限の分配を行ったのである。
- ローマでは有力者が公共建造物を自費で建てて寄贈する伝統が強いという。うらやましい限りだ。なるほど添付のフォロ・ロマーノ附近地図には名を冠した建造物遺跡がひしめき合っている。カエサルも大工事に着手している。彼はフォロ・ロマーノ拡張工事を先鞭に都市再開発に乗り出す。ローマを取り囲む建国以来の城壁は取り払われた。再びローマが城壁を持つのは、ローマの平和(バスク・ロマーナ)があやしくなり出したAD3世紀だそうだ。フォロ・ロマーノ近くには、遺跡を分断するように太い直線の大路が走っている。ムッソリーニが観兵式用に作ったのだという。
- カエサルは幾多の社会改革・政治改革・行政改革・司法改革を計画し成し遂げた。暗殺後具体化した改革もいくつかある。いちいち取り上げる必要はないので、ここでは暦の改定だけを紹介しておく。それまでの暦は太陰暦であった。江戸期末までの日本の暦と似ていて、閏月を数年に1度の割で入れる。それを6世紀に渉って使用した結果、暦上の季節と実際の季節の間には、3ヶ月近くの差が生じていたという。カエサルは太陽暦に変更した。エジプト人の天文学者、ギリシャ人の数学者が担当したという。それぞれ当時の最先端を行っていたのであろうが、とにかく外人科学者に国家百年の計に当たるプロジェクトを任せると言う器量は大したものである。カエサルは社会基盤整備において、宗教は自由、公用言語はラテン語とギリシャ語と言う伝統的施策を引き継ぎ、暦と通貨は共通とした。しかし地方言語、地方旧暦、地方通貨も限定使用を認めたのである。
- カエサルの暦はユリウス歴と言い、その後改定はあったが、原形を今日の暦まで持ちこたえている。1年を365日と6時間とした。驚くべき精度である。1627年後に法王グレゴリウスは1年を365日5時間48分46秒とする新暦・グレゴリウス暦を作った。元老院と市民集会はカエサルの誕生月(旧暦第5月=7月)をユリウスと改めた。英語ではジュライである。
('05/02/14)