ユリウス・カエサル・ルビコン以前(中)

- 塩野七生:「ローマ人の物語−ユリウス・カエサル ルビコン以前(中)−」、新潮文庫、'04を読む。三頭政治が始まり、いよいよガリア戦記の登場である。三頭とはカエサル、ポンペイウス、クラックスの3人で、ポンペイウスは中東制圧の功で今や並ぶものなき名声を手中にした武将、クラックスは騎士階級出身ながら財力抜群の金貸しである。体制維持、権益維持に汲々とする元老院派議員を相手にローマの政治を引っ張る。それを可能にしたのは市民集会の決議であった。クーデターのような暴力に頼らず、名声と財力を背景に、多数派工作をやり遂げて行く過程は、何かアメリカ型民主主義と通じるものが感じられる。カエサルはガリア属州総督に任命される。
- ガリアはラテン語で、ギリシャ語ではケルトというのだそうだ。ヨーロッパの西半分に広く分布する大語族だったが、ローマに攻め立てられ、ゲルマンに侵略されして、現在はウェールズのようにヨーロッパの辺境地域に僅かに残る程度になってしまった。スイスでも山間の谷間にゆくと、孤立した方言のなかに痕跡を留めているそうだ。人種が滅んだのではなく、ガリア語が、ラテン語とゲルマン語に、幾多の影響と痕跡を残しつつも、吸収されたのである。パリとかロンドンと言う地名もガリア語だそうだ。部族単位を超えた統一国家は最後まで作れなかったから、同じ印欧語の強大勢力に各個撃破され、吸収されて行くのは当然であったろう。
- ガリア戦記の始まりはゲルマン人の侵入におびえたスイスのガリア部族が、部族ごと、フランス西部へ大移動しようとしたことに端を発する。AD 5世紀のゲルマン民族大移動はアジアのフン族による圧迫を契機とした。BC 1世紀のゲルマン民族の移動は、ガリア人居住地域に比較しての、彼らの北東部ヨーロッパの生活環境の厳しさにあった。豊かで人口密度も高いガリア人がなぜその侵攻を防げなかったか。ゲルマン人だって攻めてくるのは部族単位で、武器も戦術も似たり寄ったりである。文明により遠い分だけ勇猛果敢な面があったらしいが、本能をむき出しにした戦闘場面ではどれほどの差になったかあやしい。ガリア戦記でガリア北東部と言われる今の北フランス、ルクセンブルグ、ベルギー、オランダ南あたりには、先史時代から続いていたのであろう、すでにゲルマン人の進出が著しかった。
- ガリア人とゲルマン人の明確な相違は背丈の差である。同じような戦い方ならいつかはでかい方が勝つ。著述だけでは心許ないので、数字を調べてみた。後世の民族大移動でだいぶ平均化したとは思うが、遺伝はしっかり残っている。フランス人はゲルマン語諸国民より平均身長が3cmほど低い。面白いのはイタリアの国内地域別身長分布である。その時代、ルビコン河、アビノ河以北からアルプス山脈までの地域はガリア北伊属州であった。先史以来ガリア人が住んでいたのである。BC 2世紀の終わりにはゲルマンの部族が南仏側とアルプス側から侵入したが撃退された。しかし中世の民族移動では、東ゴート族はイタリア特に北伊を荒らし回り、一部は侵入口の北伊東部に定住した。狭義のローマ人は中伊南伊の先住民である。
- インターネットで調べてみた。現在、イタリア人の平均身長は、女性が159cm前後、男性が約170cmという。地方によりかなりの差がある。1977年の兵役の身体検査で最も高い平均身長を記録したのはオーストリア、スロヴェニアと国境を接するフリウーリ地方で178cm、続いてオーストリアに近いトレンティーノ(177)、両地方に接するヴェネト(176)と、イタリアの北東では背が高い。低いのはサルデーニャ(171)、カラーブリア(172)などの南部だという。イタリアには所得の南北格差がある。その影響は多少は考慮しなければならないだろう。しかし遺伝的身長格差は歴然としている。私はゲルマン系とガリア系とラテン系の間にそれぞれ3cm、4cmの差があると思っている。ちなみにゲルマン系の最も背が高いオランダ人は成人男子平均が多分183cmぐらいの筈だ。このハンディが、たいして文明度の違わなかったガリア人とゲルマン人の間では、力の優劣を決めたのだろう。
- ガリア部族相手の時は連戦連勝であったカエサルも、ゲルマン部族相手では結構苦戦を強いられている。まずガリア中部の東。ライン河を渡ってくるゲルマン部族に、抗しきれなくなった親ローマのガリア部族が、カエサルに救いを求めた。ローマ軍兵は、ゲルマン人が見上げるほどに背が高く眼光鋭いという噂に、最初は皆怯えたという。だがローマ軍はプロの戦闘専門組織集団である。本書にしばしば現れる敗軍の原因、緒戦の突撃力は強烈でも、戦闘が進むにつれて力が衰える、また密集体型で闘うのを恒としたため、脇に甘さを残す、指揮官の臨機応変の能力などのために、彼らはライン河の東に追い返された。
- その次がガリア北東部のベルギー人。本書ではガリア人ともゲルマン人ともつかぬこの地方人をベルギー人としている。この地方は当時は森林が奥深く沼地が足を取るような湿地帯だったと書いてある。彼らが敵対した理由は明らかだ。中部が平定されて、次の目標が北東部だとベルギー人は本能的に悟ったのである。ゲルマン人の侵入を食い止めてきた自信も働いたであろう。この相手はローマ軍の7-8倍の兵力であった。だが、大会戦に敗れると部族連合はもはや纏まりが付かない。挿し絵がある。城塞に立て籠もったあるベルギー部族を、ローマ軍が攻城兵器を並べて脅し上げている図である。
- 彼らは降伏の誓約をするが、真夜中野営地に不意打ちをかけた。部族民5万3千は全員奴隷として売られた。その理由付けが面白い。ローマ人は誓約を重んじる。人間同士の誓約である。たとえ異人種であっても対等の人間と認めるが故に、交わされた誓いを信じるのである。誓いを破ったものは人間でないと。武士に二言はないを引用して、著者は多神教の日本人の方が理解しやすい理屈だという。一神教で神に誓約する欧米人なら、神の違う異民族との誓約は信じられたものではなかろう。
- 戦闘記述として面白くなるのは第3年目、4年目、5年目である。カエサルは、3年目にはガリア北東部の前年よりもっと北側、海岸寄りの部族と、ガリア中部のローヌ河北岸の部族を征圧した。4年目にはガリア北東部から初めてライン河を渡り、またドーヴァー海峡を越えてブリタリアのケント地方に踏み込んだ。5年目には本格的なブリタリア遠征に乗り出している。3年目の特記事項は大西洋海戦に勝利したことであろう。地中海では自らの常備海軍を持たなかったローマ軍が、海に馴れた沿岸ガリア部族に、海戦を挑んで勝った。カエサルは、住民全員を奴隷として売り払った。彼らの不当な拘留と契約破棄は野蛮人のすることとした。前年と同じくローマ人の戦争ルールを適用することで、周辺への見せしめにしたのだろう。
- ライン河東岸の最強部族の描写がある。彼らの肉体は見上げるばかりに頑強で、衣服には毛皮を纏う。全身を覆うほどではないので、ローマ人には半裸のように映る。乳と肉が主食の勇猛で鳴らす部族とある。彼らに追い出されたゲルマン部族とではあったが、カエサルはまたも10万の大軍を破った。だが4年目のハイライトはなんと云ってもライン河架橋である。ボンとケルンの中間ぐらいの位置であったという。ライン河歴史始まって以来の土木事業だった。その想像図が本分冊に載っている。橋は実戦とは繋がらずやがて撤退時に取り壊される。しかしローマ軍の実力をこれほど印象づけるデモンストレーションはなかった。その年のドーヴァー海峡渡海は高い授業料になった。
- 5年目は本格的ブリタリア遠征第1年になった。ブリタリア海岸地方−上陸したケント地方のことだろう−には、ガリア北東部から来たベルギー人が、住み着いて耕作に従事している。伝来の地名を継いでいるのでそれと解る。人口は多く、家は密集している。家畜数が多い。風俗はガリア人と変わらない。内陸部は噂では土着の民で、小麦を耕作する習慣を持たず、乳と肉を食し、衣服と言えば毛皮を纏うのみとある。カエサルはブリタリア部族連合のゲリラ戦に悩まされながら、彼らを追い込みテームズ河を渡り、ロンドンに達する。チャーチルは大英帝国の歴史はカエサルの上陸から始まると云ったそうだ。血のつながりよりも文明のつながりを重んじた発言であると思う。
- その冬カエサルは悲報を受ける。ガリア北東部の冬営地の一つの15大隊9千人が全滅した。一番東の冬営地であった。ベルギー軍は次の冬営地を目指した。ローマ軍は包囲軍を突破して救出する。9倍からのベルギー軍はまたも会戦に敗れる。敵が放置していった攻城器の量と質にカエサルが驚いたとある。ローマ軍の攻城技術がすでに前年の戦闘からの学習で伝わっていたのである。
- NHK世界遺産・ドナウ、ラインの旅では、ライン川西岸の豊かなブドウ畑とところどころの城塞を空撮していた。葡萄酒はローマの贈り物である。ナレーションは、ローマはライン河をゲルマンとの境に決めていたと云った。版図に対するこの認識は、ガリア戦記に初出するそうである。
('04/12/05)