読売vs朝日


読売新聞が11/2創刊(明治7年)130周年を迎えた。発行部数は1010万部(朝刊)を超え世界最大だという。日本の全国紙は長い間朝日毎日読売の三つ巴であったが、まず毎日が落ち、ここに来てどうやら読売が一歩抜け出たのではないか。私が字を読めるようになって以来の、だから60年ほどの印象は、三紙の中では現実的、保守的、右翼的、民族的と云える。朝日は進歩的と言えば響きはよいが幾分ヒステリックだし、毎日は中道指向のようだがどっちつかずなところが飽きられたと思う。読売新聞論説委員会:「読売vs朝日 21世紀・社説対決」、中公新書ラクレ、'04を読む。もちろん読売側の発言である。シリースの3冊目である。逆の立場の本が朝日から出版されるといいのだが。
本書は'01/9/11のアメリカ同時多発テロから本年5/16の年金問題までを扱っている。新しい順にまず年金。首相の40年も昔の3ヶ月の未加入を捉えて社説まで書く必要はないと思うのだが、両社ともそれにかこつけて競争相手の揚げ足取りに懸命である。納入より支払いが多ければ、やらねばならぬことは明白である。でも猫に鈴、あるいはやぶ蛇で言い出せば無傷では終わらない。だからババ抜きの審議は、官僚や学者先生の上げるアドバルーンにお願いして、政治家は問題をそらす、新聞は叩き側になって火の粉から逃げる。そんな構図かな。憲法。両社とも世論が改憲支持だと認識している。自衛隊イコール再軍備論だった朝日も容認論に変わった。でも護憲的改憲論などと負け惜しみを云っている。活動の枠をはめるというが、自衛隊を土方集団にするつもりなら論外だ。イラク人質事件では朝日はイラク人の感情への配慮をいう。それも大切だが、昨今の武装勢力の暴走ぶりを見ると、強力な抑止力がないままにイラクを放置すれば、早晩アフガンのタリバン支配のような形に進むのは目に見えてくる。
アメリカ同時多発テロ、イージス艦派遣、「北」の核・ミサイルと安保、イラク開戦、自衛隊イラク派遣の各章には日米協調問題が根幹にある。北の脅威に対抗するには、常日頃の対米協調が大切という読売に対して、朝日は安保がある以上アメリカが有事に日本を守るのが当然という。朝日は第二次大戦の米英関係を想定しているのであろうか。米英は言語まで同じ同文である。日米が同文だとはアメリカ人はほとんど思っていない。日ソ中立条約のように、国家間の約束が簡単に破られた例はいくつもあるという読売の方が、はるかに説得力がある。
靖国参拝と歴史認識は、孫・曾孫の時代にまで及ぶ国民の大事であると思っている。私はこのHPに、靖国問題は信仰の自由に関する問題だと書いたことがある。読売は、別の日の社説で、戦没者慰霊はその国の伝統や習慣に基づく文化問題で、A級戦犯も含め死者を平等に祭るのは古来からの習俗であるとしている。民主主義先進国の中で、首相靖国参拝に干渉的言辞を弄した国は皆無である。中国韓国、特に最もしつこい中国はその分民主主義未成熟の証拠であろう。外交カードにさせてしまったのは国内に共鳴勢力がいて、政府の足を引っ張る道具にしているからである。歴史認識は多様であってしかるべしだ。それが民主主義国家の基本的基盤である。中国共産党の歴史認識でなければならぬはずがない。近年はっきりしだした中国韓国の反日教育の徹底ぶりを考えたら、どちらが「偏狭なナショナリズム」に毒されているかはっきりしている。歴史教科書への干渉など以ての外である。再び民主主義未発達国と思う。朝日は昭和天皇の戦争責任について明言している。国家の最高位にあった人物がつい最近の出来事に責任を負わないで、どうして普通の臣民が自らを省みるかというジョン・タワー氏の言葉を引用している。読売は天皇責任論に一切触れていない。読売の限界である。
社説比較では野党的立場をとる方が決定的に損である。なぜなら国内問題国外問題いずれにせよ与党によって現実の方向付けがなされ、その結果たる既成事実に基づいて次の段階が始まるからである。マルクスの資本論によって指摘された資本主義の欠陥も、次々方向修正されて、批判理論のマルクス・エンゲルスの共産主義の方がだんだん色褪せていった過程と同じことが、あらゆる各論について当てはまる。日本は戦後の一時期を除けば村山内閣の頃も含めて保守主義を貫いてきた。だから朝日はあのときこう云ったのに、今は、方向修正したのか変節したのか、こんなに変わっているという指摘はまずはさておいて、ことを判断せねばならない。自衛隊が絡む国際貢献問題、海外派兵問題、憲法問題には特にそう感じた。
我が家を振り返ってみる。祖父の時代は多分毎日であった。祖父は結構リベラルな人で、五・一五事件で犬養首相が暗殺されたとき、軍人に政治が解るかと吠えたそうである。父の時代には毎日と朝日を交替に取っていた。戦後は朝日が多かったと思う。父は実務派の穏健な思想で鋭角的な意見を吐くことは少なかった。全国紙と言えば朝日と毎日だけであった。読売が関西に進出したのは私が大学生になり立ての頃であった。その頃は京都にいた。威勢のいいアンチャン風の拡販員が我が家に来たのを覚えている。関西では長期に亘って販売数は低迷したのではないか。親から独立してからもずっと朝日だったが、50代には毎日となり、老年期となった今では読売と毎日となっている。自分の哲学思想との乖離が大きすぎると気付いたときに、購入紙を変更しているようだ。TV時代とは言え、思考力を働かせるときの基本議論は新聞に頼っているようだ。地方紙は京都新聞を取っていたことがあるだけである。地方紙の強い土地には土地の文化があると言うが、振り返ってみるとそうだったかも知れないと思う。
11/12毎日一面に、読売新聞に地方テレビ局9社、ラジオ局3社の株保有で省令違反があったと報じた。この総務省令は、巨大メディアの情報コントロールを予防することを目的とする。正力さんにせよ渡恒さんにせよ、読売の会長は何かカリスマ性を持っているが、力の源の一つに省令違反があったと言うことである。現場の不正経理ややらせの問題とは違って、報道機関の遵法哲学の問題である。読売自身は小さな事務的問題のように扱っていた。田中真紀子衆議院議員長女のプライバシー侵害事件に関する文春出版停止事件はあれだけ取り上げたのにである。世界一の発行部数を持つメディアであるのなら、もっと深刻に受け止めてもらいたいものだ。本書の発行元・中央公論新社も、読売新聞グループ資本支配下にあることも付け加えておこう。

('04/11/14)