七尾初訪問


飛鳥の秋の日本一周・韓国クルーズの第5寄港地は七尾であった。能登半島を輪島まで出掛けたことはあるが七尾は初めてである。10:30にフリープラン七尾美術館・長谷川等伯展に出発する。市の観光案内ボランティアと女子職員が乗っている。バスは市のサービスらしい。出発時は小雨がぱらぱらといった状況であった。なんとか秋らしい気温になった。半袖だが用心のチョッキを持って行くことにする。
まず市役所へ。正面入り口1F壁面に等伯の模写陶板画と大地主神社祭礼(青柏祭)山車車輪を見せるためであった。山車は著名な歴史場面とか歌舞伎の場面を人形等で舞台姿に拵えた、一風風変わりな姿になっている。これはあとで魚市場の展示場で知ったことだが、能登が前田利家の領地となる前は畠山氏の支配が150年にわたって続いた。山車には畠山氏の紋が残っているものがある。
美術館は七尾市の財政支持による財団運営という。長谷川等伯は28歳ぐらいまで信春と号してこの土地にあり、多くの作品を当地に残した。この土地の信春作品が脚光を浴びだしたのは、信春が上京して等伯になったという研究発表があり、それが定説化したのと平行しているという。彼は上流とはいえない武家の出自だが、長男でなかったために商家(染め屋)の養子となり、養父の影響で絵に目覚めた人だという。彼の絵の特徴は線の力強さと安土桃山時代を代表する色彩の豪華さだという。展示は能登時代のものばかりであるが、近く国宝で国立東京博物館所蔵の松林図屏風が貸し出されて展示される機会が来るという。狩野派総帥の元信の絵が戦火等であまり残らなかったのと対照的に、寺の襖絵のような形で彼の絵は相当数残って今日に伝えられた。注文主争奪戦における狩野派と長谷川派との角逐は相当に熾烈であったらしい。織田、豊臣、徳川と最上級武家それから宮廷は狩野派が独占したようだが、社寺に長谷川派は入り込んだらしい。等伯は江戸に出て2日目に死んだ。これからは江戸の時代と誰しもが思っていたに違いない。
山の寺寺院群は、北に対する防御砦をかねる形で、前田利家によってそれまでの位置から移転させられたものという。案内されたのは本延寺という京都本法寺末寺である。日蓮宗の寺で、長谷川家の菩提寺という。美術館でも見たが、ここにも長谷川派の画家による涅槃図があった。小振りな寺だが、住職夫妻は等伯の縁につながる催しなどにいろいろ活躍しているようであった、美術館で見た等伯の紹介ビデオにも出演していた。天井画は長谷川家につながる血筋の、京都芸大出身の画家による絵で7年ほど完成にかかっているのだと聞いた。
七尾城は畠山氏がよった堅固な山城で、近江の観音寺城(佐々木氏)などと共に中世の代表的城郭であるという。山名氏の竹田城(但馬街道筋)もその範疇にあるはずだ。最後は幼少の城主と武将の仲間割れで上杉謙信に陥落させられたという。そういえば難攻不落と言われた観音寺城が、信長の軍門に敢えなく一日で落城したときも内紛だった。観音寺城と竹田城には登ってみたことがある。七尾城にも機会があれば登ってみたいと思った。江戸城とか大阪城の近世城郭とは異なる厳しい雰囲気を持っていて私は好きだ。利家の最初の居城小丸山公園を横に見ながら能登食祭市場に行った。魚市場といったところ。私には縁がない場所だが、家内はいろいろ買ったようであった。2Fでラーメン、にぎりめしのの昼食をとった。
船内ホールで30分ほどの御陣乗太鼓実演があった。間近ではたいした迫力であった。太鼓打ちの強烈に勇ましいパーフォーマンスに全員が拍手を送った。村人が鬼面に海草を垂らした出で立ちで太鼓を打ち鳴らし、上杉の軍勢を撃退した故事に基づくという。腹に応える太鼓の響きのおかげか、夕食の中華はたいそう美味かった。

('04/10/08)