函館紀行


北海道には何度か旅行をしているが、青函トンネルをくぐる旅は初めてであった。東京をはやて11号で10:56に発ち、白鳥11号に乗り継いで函館着が17:31。3日目の戻りは、函館を白鳥22号12:51で発ち、はやて22号に乗り継ぎ、東京に19:08に到着した。東京から我が家までを加えれば片道7-8時間を列車で過ごした。車中JR北海道のアンケートに答えたとおり、こんな長距離旅行を鉄道で行ったのは大人の休日のおかげであり、さもなくば明らかに飛行機で旅する行程である。函館が大人の休日の範囲に入ったのは今年からで、この企画は何年も続いているから、利用者は行くべきところは行き尽くしただろうから、そろそろ範囲を広げないと利用が減少する恐れが出始めたのではないかと勘ぐったものである。函館行きは超人気で、席数の少ないグリーン・パスは早々に売り切れ、普通パスでも戻りの白鳥の禁煙席は手に入らなかった。発券開始日9時頃にもう売り切れだった。発券は朝6時からだそうだ。考えてみれば函館は最もいいシーズンに入ろうとしている。最高温度が21-23℃最低が16℃だったから、関東の春たけなわの気温だった。函館の人たちは長袖半分、半袖半分だった。
車中の案内では、青函トンネルは全長54km弱、海底部はその23kmほどで、海底下100mほど海面下240mほどを通るという。工事に23年かかり、当時のお金で6千数百億円ほどかけたという。昭和63年開業。私が初めて函館に来たのは、昭和30年であった。博覧会が開かれていた。友達とはぐれてしまい、博覧会そっちのけで青函連絡船出帆寸前まで探し歩いたことを思い出す。見物に来ていた自衛隊隊員が心配してくれて、最後までつき合ったくれた。今や懐かしい思い出だ。人に対する印象は、その人の所属に対する印象になり、その土地に対する印象にもなり、いつまでも我が胸に残った。中小国から木古内までが新工事分なのであろう。この間は複線である。しかし両側の在来線は単線のままであった。北海道側でJR西日本の寝台特急日本海号とすれ違う。昭和30年の旅行では青森までを裏日本回りのこの日本海号で旅した。富山あたりが朝で青森ではもう夜だった。丸一日がかりの急行であった。停車中の日本海号にはあまり乗客は見えず、ガラガラであった。
函館駅はモダンな新築だった。連絡船の引っ込み線など全くなくなり、ガラス張りの明るい駅舎で、1Fに売店、2Fに食堂が入っている。新装1周年の垂れ幕があった。この駅に限らず沿線各所で新幹線北海道延長に関する大きな立て看板を見かけた。青函トンネルは新幹線と併用できるようになっているから、単位長あたりの投資額では九州新幹線とそう変わらぬ立場のようにも思える。しかし採算的には九州新幹線以上に苦しいのではないか。函館以北の、大人の休日とは縁のない特急の乗客はまばらであった。
翌日、市電で函館山を目指す。たまたま来た市電が谷地頭行きであったのでそれに乗った。市電函館バス共通一日乗車券1000円を買う。あとで知るのだが、バス路線は函館バス以外にもあって、観光用としては北都交通の観光スポット循環バスの方が値も同じだし少なくとも空港利用者には有利なようだ。ただし我々が買った一日乗車券には函館山登山バスも含まれているが北都のには付いていない。まあ一長一短と言うところか。
谷地頭で下りた以上は立待岬に進まねばならぬ。町の家屋は色も形式もとりどりのハウスメーカー製品が多いようだ。それでも敷地にゆとりがあるので、京都−大阪間の新興の町のように、軒を接して立ち並ぶスラム街風の密集家屋群よりは遙かに風情がある。ただ住民には庭に対する関心は低いようで、心を和ませるようなお庭は、通りから覗く限りではお目にかかれなかった。同じような感想を函館空港付近の住宅街でも持つことになる。家と庭が一体物だった日本の伝統はもう消えてしまっている。町はすぐに切れて、山が海岸に迫るようになり一帯が墓地になる。一番有名なのが道側の石川啄木一族の墓のようだ。墓地はどこもかしこも草ぼうぼうで、小道の石段には崩れかけているものもあった。関東や関西の墓地と比べて一番強く感じた相違点である。大戦で死んだ兵士の墓も訪れる人が絶えたのか草生していた。
立待岬では、森昌子だったかのご当地ソングなどスピーカーから流れていなかったのでホットした。そそり立つ岸壁が望める景観の土地である。山側の道を引き返す。途中に急勾配の細い登山道が出ている。旧陸軍の砲台跡を巡るハイキングコースとしてどこかの旅行誌に載っていた。碧血碑に立ち寄る。函館戦争で死んだ幕府方の将兵を祭る。800人に近かったそうである。イラク戦争での死者数と比較してその人数の多さに驚く。説明の筆頭に上がっているのが土方歳三で、彼はNHKの大河ドラマ「新選組!」の準主人公だから、時の人である。碑の前には立派な献花があった。新選組終焉の地を巡る観光バスが運行を始めるそうだ。気の早い人が花を供えていったに違いない。碑の周囲はきれいに掃除がしてあった。一般の墓所が荒れ放題なのに対比的であった。函館八幡宮に参拝。私の前の中年女性は、作法通りに二礼二拍一礼を行った。観光地ではもう滅多に見られぬ礼拝であった。
市立函館博物館に入る。そう大きな博物館ではないが、一帯の公園敷地には、旧館が2館も保存されているから歴史は長いようだ。ちょうど1F全体を使って、ペルー箱舘来航150周年という特別企画展をやっていた。前日始まったばかりだった。出品資料名、解説、所蔵者名の入った資料をもらった。入念な準備が分かる。一巡したあとで地元テレビ局(HBC)のインタビューを受けた。ペルー関連の資料には在住地(関東)でしばしばお目にかかるが、ほとんどが江戸浦賀関連で、今回展示の箱舘におけるペルーの活動についての資料は新鮮であったとか、残された日本側民間人のスケッチとかポンチ絵に人民の恐れおののく気持ちがよく出ているとかの感想を述べたように思う。出る頃に雨になりだした。博物館で傘を借りることが出来たのは幸いだった。
ロープウェイには乗らなかった。雨でかすんでいるから山頂から展望しても意味がない。前回函館に来たときもそうであった。東本願寺別院の大屋根を見下ろし、教会の尖った石造建築を左右に眺めつつ石塀に沿って遊歩する。ここらは昔も歩いた記憶がある。彼ら西洋人が、頑固に自分らの生活習慣や文化を異国の日本でも守り通そうとしたことが分かる建物が並ぶ。旧函館区公会堂は典型的な和風木造洋館で、張り出した2Fのテラスが建物を引き立たせている。明治村にあった旧三重県庁にも、佐久の旧中込学校にも、2Fにテラスが付いていた。テラスは何か余裕を感じさせる空間で、見る人の印象に残る。函館山山麓にあり周囲に際だつ建物がないから一層に引き立つのであろうか。この建物の総工費は5万8千円で、大半を豪商の寄付金でまかなったという。貨幣価値が今の1万倍としても案外に安い。御座所御寝所は行啓時の再現であった。なにか交通博物館で見たお召し列車のような雰囲気に作られていた。
元町公園を経て本降りとなった雨の中を旧イギリス領事館に行く。大正に入ってからの建物だそうだ。小部屋をいくつも見た。領事の家族が生活した場所である。他にも館員がおったのだろうか。ティー・レストランの紅茶で一服する。狭いがちょっとしたバラ園があり、今を盛りと色とりどりに咲いている。私の千葉ではもうとっくに終わった花である。北方民族資料館で北海道から樺太、千島、シベリア、カムチャッカ半島、アリューシャン列島、アラスカに分布する先住民族の生活と文化を勉強する。我々の1/3の血は北方民族からだと聞いているから、彼らに対する関心は強い。文字を持たぬ諸民族の解説には、どうしても痒いところに手が届かぬもどかしさを否めない。展示品は日本側の収集品や記録がほとんどである。しかしこの広大な地域の99%を支配するのはロシアにアメリカだ。彼らの研究がどこまで進んでいるのか知りたいと思った。文学館と旧金森洋物店(函館博物館郷土資料館)にも立ち寄った。函館は何度も大火に襲われているらしい。最後の洋物店は官の呼びかけに応じた明治13年の煉瓦造り耐火洋風建築になっている。それが功を奏して明治40年の大火には類焼を免れたという。展示品は別段気を引く品もなかったが、この耐火建築の歴史には興味をそそられた。
市電で函館山に反対側の湯の川に行く。前回はここに泊まった。市電の終点である。そこでバスに乗り代え函館空港に出た。バス便は思いの外少なく1時間に1本程度だ。狙いのおみやげ、北菓楼のシュークリームはそこにしか置いてないのだという。残念ながらもう売り切れていた。一旦ホテルに戻り、荷物をおいて谷地頭温泉に出掛けた。温泉は茶色である。鉄分が高いそうだ。湯の川は同じ函館だが泉質は透明である。露天風呂を含めて浴槽が4つある。温度は44℃から41℃まで3段階だ。さすがに44℃の風呂には入れなかった。明るくて清潔な温泉であった。市立だという。

('04/07/06)