勝者の混迷(下)


塩野七生:「ローマ人の物語・勝者の混迷(下)」、新潮文庫、'02を読む。ローマ人の物語シリーズはまだまだ続くが、現時点では文庫本化はここまでである。
第二章は上巻からの続きである。北イタリアに侵攻してきたゲルマン民族との戦いや、イタリア国内の同盟者戦役は、オリエントの食指を動かした。ローマは格好の隙を見せたと感じさせたのである。小アジアのローマ属州を虎視眈々とねらっていたポントス王ミトリダテスは、アテネを味方に付けてギリシャ民族の解放者のように振る舞った。ローマ側はオリエント制圧戦のリーダーシップを巡って、相譲らぬ勇名の武将二人が対立した。マリウスとスッラである。まずスッラがクーデターを起こす。ローマ史初のクーデターで、首都では誰も予想しておらず易々と成功したらしい。ミトリダテスは12万の軍を率いてアテネを占領したスッラ軍3万と戦うが、1/4の敵に完敗する。次いで8万の軍を率いた第二戦にも完敗する。
だが空の首都には、逃亡していたマリウスが入城し、スッラ派は一掃され、スッラ軍はローマ正規軍に追われる身になる。スッラにとって幸運であったのは、マリウスが程なく死んだことであろう。結局覇を唱えたのはスッラであった。スッラの「処罰者名簿」には4700人が名を連ねていたという。スッラの改革は、元老院による共和制を強化して、シビリアン・コントロールをより確実化しようというものであった。元老院議員には旧貴族勢力と同数の騎士階級を選び、平民層の暴走を防ごうと考えた。騎士階級とは急激に頭をもたげてきた経済人で、富裕市民層とでも言うべき階級である。
第三章・ポンペイウスの時代の冒頭にスッラ股肱の臣と言う表現が出てきた。スッラが後事を託した部下たちという意味である。広辞苑は、股肱とは、手足となって働く、君主が最も頼りとすべき家臣のことと説明している。著者は承知の上で使っているのであろうが、中国源流の抽象語をヨーロッパの歴史に当てはめる困難を感じさせる。奴隷制、共和制の、市民集会が最高決定機関であるローマに股肱なぞという観念はそもそも存在し得ないと思うのが順当である。
言葉と言えば、ラテン起源の概念語が現代ヨーロッパ語に深く浸透していることに改めて驚かされる。例えば、ラテン語では主従関係のある同盟国の主側がパトローネス、従側がクリエンテス。英語では前者がパトロンに後者がクライアントである。同盟国は紛争のたびにローマに調停を依頼した。それが弁護士の依頼人の意味のクライアントになったのであろう。エンペラーの語源になるインペリウムは絶対指揮権の意味で、共和制時代に出陣する総指揮官に与えられ、彼は戦場の一切を独断で取り仕切れた。ローマ軍が勝ちまくった理由の一つだと思う。脱線だが、昔、天皇をエンペラーと訳したために、その役割を誤解されたという話がよくあった。鎌倉以降では将軍職がエンペラーで、明治を迎えるまでの天皇はゲルマン語源のキングと思ったらよいのだろう。
いよいよスパルタクスが登場してくる。ローマ史に特筆すべき大事件となった理由は、イタリア本土での奴隷の反乱はこれ一件であったためでもある。古代社会は奴隷を踏み台にした社会だから、「奴隷」という言葉の「惨めに虐げられた人」の印象からすれば、反乱は無数にあってよいのではないかと普通は思うだろう。私のイメージする奴隷は、鉱夫や農夫の最下層の未熟練労働者を指す。実際は奴隷にはピンからキリまで値段にすると100:1もの開きがあったという。ピンにはいるのは、ギリシャ語や弁論術をローマの良家で教える教師で、ギリシャ人の独占だったという。スパルタクスらの剣闘士はこの本では中間の「一般の職人」クラスに入れられている。奴隷は自由民の1/2から1/3はいた。彼らは社会の機能に組み込まれ、それなりに家族に厚遇されていた。階級としても固定的でなく、解放奴隷になる道も開けていた。それらが反乱が少なかった理由として上げられている。古代ローマ人の奴隷の定義は、自分で自分の運命を決めることが許されない人と言うことだった。そんな言い方だったら、現代人は何らかの意味で部分的奴隷である。
「ローマ人の物語」シリーズは政治史、戦争史が中心である。しかし奴隷の反乱のおかげで、当時の社会事情をそこそこに垣間見ることが出来たのは幸運であった。日本ではどんな連中が奴隷であったのだろう。年季奉公人はこれに近い。その典型は遊廓の女郎であろう。宮本武蔵に出てくる吉野大夫はそのピンにあたる。ちょうど1年ほど前に京都の常照寺を訪れ、実在の人物であったことを確かめた。辞書によると、ローマ法には夫権manusと言う権利があるという。夫が売買婚による妻に対して持つ絶対支配権などとあり、転じて財産所有権を指すことになったらしい。吉野大夫は豪商文人灰屋紹益に身請けされた。灰屋紹益にはmanusを主張する機会はなかったらしく、仲良く同じ寺に眠っている。大夫は最後まで高く評価された人であったらしい。ボンベイには娼家の遺跡もあるそうだから、ローマでも公然と売春業は繁盛していたのであろう。しかし塩野さんの話には性奴隷の話は一切出てこない。私が拘るのは、時代を超え地域を越えた価値の物差しとして、「性奴隷」ほど一般的に使えるメジャーはないからである。
昔「アレキサンダー大王」というアメリカ映画を見た。原名をALEXANDER THE GREATという。史上ALEXANDERの次にTHE GREAT(ラテン語でマーニュス)と呼ばれ、やがてそう自称したのは本章の主人公ポンペイウスで、最初にこの尊称を彼に使ったのはスッラであった。ローマでは、この紀元前1世紀あたりから、ますます市民階級騎士階級の存在感が増し、彼らが選ぶカリスマ性のある人材が、少数寡頭共和政治派の元老院勢力を凌駕するようになり、ブレーキの利かぬ電車に乗り合う方向へ進む。選ばれる理由は引きも切らせぬ内患外憂の頻発に、ローマが迅速な対処を必要としたからである。ギリシャの歴史家ツキディデスはアテネの衆愚政時代を指して、「大国の統治には、民主政体は適していない」とまで言ったそうだ。民主制だってプラス面とマイナス面がある。手遅れにならぬ内に、全権をポンペイウスに与えた見識は、それはそれで立派であった。だがその選択の便宜性に馴れきって、過去においてなぜその方法を選ばなかったかに、想いが及ばなくなったとき、共和制が崩壊するのである。
ポンペイウスは名将であった。反スッラ派のセルトリウスは、スペインに散開して、ゲリラ戦法でローマ軍を手玉に取ったが、ポンペイウス軍の増援によって追いつめられ、長年の紛争は終わった。絶対指揮権を与えられたポンペイウスは弱冠30才であった。資格要件を満たさぬままの超法規的選抜であった。オリエントの臭雄ミトリダテスとはローマは三次にわたって戦火を交えたが、ポンペイウスはついに彼を自決に追い込んだ。ミトリダテスの手紙が残っている。ローマは王が死んだのに乗じ、でっち上げの遺言書でペルガモン王国を乗っ取り属州としたと言う意味の話が出ている。覇権国家の狡猾な歴史作りは今に始まった話ではない。
数々の武勲話の中で一番面白かったのは海賊退治である。敵対するミトリダデスの資金援助もあって、当時の海賊は一大軍事事業であった。ローマは港を軒並みに襲撃され、小麦の輸入さえ自由にならなかったという。ローマの市民集会は根本的軍事作戦を可決した。軍船500隻、重装歩兵12万、騎兵5万、これまでにローマ軍が戦った大会戦の陣容はせいぜい3万程度であったことを考えると、これらの数字は桁違いである。軍費は実に国家予算の70%。海賊船はもちろんのこと全地中海に広がる海賊基地を虱潰しに潰したのである。なぜ海賊が急膨張したかの解説がある。海と陸の差を除けば、関ヶ原の合戦から大阪夏の陣あたりまでとそっくりである。
我が国で今話題の陪審員制度改革が出ている。元老院議員の独占であった陪審員をポンペイウス時代に元老院議員、騎士階級、平民で三等分することになった。それが属州総督告訴の公平な裁きに役立った例が示されている。お代官の悪政を水戸黄門しか正せないシステムに比べれば、民主制の浸透ぶりに驚かされる。しかも紀元前の話である。
ポンペイウスはユダヤの土地を半属州とした。ローマやギリシャの慣習通りにポンペイウスはユダヤ神殿の聖所を訪れたが、ユダヤ教徒には神への冒涜と映った。別のページに「ユダヤ教信者を強制収容所に閉じこめるのは、・・・・、キリスト教的には、完全に非である、と言いきることはできない。」と言う文言がある。キリスト教はローマ文明の継承者として現れる。発祥前である70年ほど昔のローマ人の、異文明に対する容赦のなさをきっと受け継いでいる。双方の度量の狭さを、一神教だからなどと考えずに、人間一般の業として真摯に受け止めねばならぬ。

('04/06/22)