北山杉

- 朝10:13ののぞみで京都に発つ。12:34に到着。すぐコインロッカーに荷物を入れ、JRバス13:00発周山行きに乗る。約1時間乗って、山城中山で降りる。北山杉のふるさとである。川端康成の「古都」の舞台で、映画では岩下志麻が双子の一方・苗子にも扮して、かいがいしく丸太磨きなどの作業員を演じた村がそこにある。清滝川に沿った1.5kmほどの旧国道をゆっくり散策した。狭い平地にぎっしりと家が建ち並ぶ。土蔵倉もあって裕福な雰囲気を残す。銘木の看板があった。磨き丸太を立てかけた材木倉庫、その丸太を薄い板材に切る製材所など、林業を物語る雰囲気はあった。しかし丸太磨きの現場はどこにも見あたらなかった。薄板は木目が売り物の化粧板として使うのであろう。
- 滅多に人影を見なかった。働いているのはお年寄りが多い。志麻のような若い女性は、作業員はもちろん歩いている人にも見かけなかった。険しい山肌には、なるほど杉がきちんと間隔をとって植えられている。伐採も植林も計画的なことは一目で分かる。部落を通る旧国道が、トンネルを出た新国道に合流するあたりの川土手に、シャガの群生を見た。光悦寺の参道で見て以来であった。植物としてはもう一つ、ケムリノキが白い実を付けた姿のような樹木をやはり土手に見た。葉の緑が隠れるほどの円錐花序で、渓谷に覆い被さろうとするかのように咲いている。サワフタギのようだった。しかしこの季節に白い小花を木いっぱいに咲かせる樹木はいろいろある。少し離れていたし、私の乏しい知識では、近くに立っていても断定は不可能であろう。3本ほど見た。合流点から少し北へ歩くと、杉坂口という三叉路になっている。谷を跨いで、たくさんの鯉のぼりが泳いでいた。
- ここらが北山杉の本場らしい。インターネットの観光案内には、もう少し歩くと、北山杉の資料館があるように書いてあったが、何しろ足弱連れで歩道もない国道だからやめにした。とことこ川に沿って下ると区役所の出張所があり、トイレを借りた。喫茶店はもちろん店らしい店はなにも見あたらない土地だから、トイレだって小学校とか消防とか公共の施設を頼る以外にない。中のおじいさんは親切だった。ここだけではない。人全体が関西は親切である。少なくとも表向きの人当たりは関東よりは遙かにみやびている。谷の鯉のぼりが話題になった。鯉のぼりは昔は木綿製であったが、今はナイロン製だという。雨に対する乾きぶりが、ナイロンの方がずっとよいとか言っていた。乾燥速度ではなく、保水量が少ないという意味であろう。べっとりくっつくと風に泳がなくなるのである。鯉のぼりは各個人の寄付に頼っているそうだ。ほぼ1時間散歩して、菩提道から京都駅行きのバスに乗った。
- 戻りのバスは、思いがけなくも、大将軍小学校脇を通った。往路に通った一条通は、昔と少しも変わらず、西大路から等持院あたりまでは、バスがすれ違うのが難しいほどの道幅だから、復路は迂回路を取るのであろう。大将軍小学校は私の母校である。敗戦の翌年に卒業した。車窓からの景色はすっかり変わっていた。木造であった校舎は鉄筋コンクリート製になっていた。道を挟んだ反対側には、府立医大花園校舎と府立体育館が並んでいた。私が通っていた頃は精神病院の敷地で、高い塀の内側に数多くのポプラが植わっていた。精神病院をきちがい病院と言い習わしていた。よく患者が脱走し、そのたびに屈強な収監要員が出て、家々の庭などを探し回っていた。
- 小学校の前には昔は畑が散在したが、今は奇妙なデザインの洋風住宅などが建ち並び、町並みの美しさなど微塵もない。バスは西大路通、丸太町通、千本通、大宮通を通って京都駅に帰った。かっての統一された家並みはすっかり無くなって、ゴチャゴチャとした貧しい風景である。家々の背が低いから、電柱の列が貧しさを余計に目立たせる。たまに残っている狭い間口の木造家屋が、何か申し訳なさそうに大通りに面している。でも碁盤の目の都市計画の有り難さで、景色が一変しても通過点の位置に迷うことはなかった。丸太町通で紙屋川を渡った。小学校の校歌に歌われているこの川は、私にとって特別の川なのである。昔は字義のごとく紙を漉いていた川という。
('04/05/02)