発明の褒賞金


日亜化学工業の青色発光ダイオードLEDは実質市場独占商品で、その工業化成功により会社の売り上げは10倍以上に、社員数は4倍以上に拡大した。莫大な富を今後も稼ぐことであろう。決断した創業者は功成り名遂げて今は鬼籍にある。LEDの技術蓄積など全くなかった日亜化学工業でその開発を推進し、自ら百年に一度という発明を成し遂げたのは、元社員の中村カリフォルニア大教授である。だが彼に手渡された報奨金はたったの2万円であった。その惨めな待遇は外国科学者からまで指弾されるようになった。中村先生の海外流出も日本にとって痛手であったが、研究者評価の低さが海外で評判になったことは、日本の将来にとってもっときつい打撃であった。

知財立国と言っても現状の文系のノウハウや芸術は立国の突っ張りになりそうもない。1/30のLED発明対価200億円という東京地裁の判決は、当面は理系の知恵に国の将来を依存せざるを得ない日本にとって、幾分の愁眉を開いたものとも云えそうだ。インタビューで中村先生は「滅私奉公」と言う、今では死語になってるとばかり思っていた言葉を使われたのが印象的であった。私は大学卒業の祝賀会席上で、古参教授が就職は女が嫁に行くのと同じと表現し、勤務先への誠実忠誠を諭したのを憶えている。半世紀近い昔の話である。この「滅私奉公」が「兎小屋」に住む「働き蜂(蟻)」を作って、日本を今日の経済大国に押し上げたのは事実である。しかし能力主義、家庭主義、勤労意欲の変化などが、年功序列、終身雇用の土台を揺らがし、「滅私奉公」だけを企業精神として残すような虫のいい話を許さなくなった。
研究者の給与は何に対して支払われるのだろう。私は自分の経験から、その専門とする学術技術分野で、自身を一流に保つために日夜行う努力にたいして支払われるのだと思う。専門が分化多様化し、それぞれが猛烈ないきおいで奥へ奥へと進化し分野をどんどん拡大して行く、その速度がどんどん加速されて行く。特に儲かりそうな新規分野でその傾向が激しい。こんな時代では、発表論文について行くだけでも大変な重荷である。LED研究の世界はその好例ではないのだろうか。
研究者の中にはマネージメントのコースに舵を切って、社長にまで出世する人もなくはない。しかしこれは文系に比べればハンディの大きい狭い道で、それは大卒数では理系の方がずっと多いのに、社長数では文系に逆転されていることからも分かる。新藤宗幸:「技術官僚」、岩波新書、'02は、トップに近づくほど技術出身官僚数は少なくなる実態を示しているが、これも世の中が進歩すればするほど、技術屋は出世できなくなる宿命を証拠立てているように思う。NHKプロジェクトXに出てくる開発者のその後は、たいていは一研究者としての引退である。それでも研究屋は勉強にいそしむのである。日本の社長は同じ社長でもアメリカの1/10の所得だという。だが生涯所得は億をかなり越えるはずだ。高級官僚も天下り先を渡り歩いて結局は億単位になると聞く。プロ野球選手の所得は聞いての通りである。研究屋にもチャンスをやらなければならない。
1/31の読売朝刊は発明の報酬特集の観があって読み応えがあった。日亜化学工業の反論は、中村特許だけを過大評価し、他の研究者や企業の貢献を軽視したというもののようだった。確かに工業化には様々の努力が必要で、中村先生の研究だけでことは成ったとは思わない。特許だけでも改良特許、応用特許、防衛特許と山のように保持していることであろう。でも貢献度は平等ではない。基本特許たる中村特許あってのLEDだから、裁判官が儲けの50%は中村先生のものと云ったのは正しかろう。一つ気になるのは貢献度50%の決め方である。判決文にはその根拠は全く出ていないいわゆる山勘数字である。同類の訴えはかなり出ているし、今後この種のトラブルの続発を避けるために、法整備して行く上にも、何らかの根拠を示して欲しかった。そのためには法律を学んだだけの人による判断では駄目で、広く専門家を集めて判断を下す場を設けねばならない。
日亜化学工業のみならず、他の企業マネージメントからの反発は色々あった。チームワークを大切に、研究は勿論製造や営業までが協力し合って優れた使い勝手の良い、要するに競争力の高い製品に仕上げるのが日本的開発手法だとする。個人が成果の分け前を主張し始めると、今までのような効率の良い開発が望めなくなるだろうと危惧する。お金に淡白な「滅私奉公」型の、家庭も忘れて熱中する技術者が、一見企業に取ってはもっとも都合の良い理想像であることは間違いない。だがそれは、日本の将来を考えずに目先の損得に拘泥するサラリーマン重役的発想である。
今回判決のような対価が定着するようなら、日本に研究拠点を置けなくなると極言する人(キャノン顧問)も出た。内心何処へ持って行こうと思ったのだろう。製造に続いて研究も中国へ移転しようというのだろうか。中国の研究水準は知らない。だがとんでもない冒険のように思える。開発力水準から云えばアメリカだが、そこは日本以上に個人貢献度について喧しい国である。戦後のアメリカナイズで散々経験してきたように、一つ新しい概念を持ち込めば、昔からの概念を一つ手放さざるを得ないのが社会だ。何としてでも日本の競争力を維持しようと云う視点に立って、取捨選択を企業が間違えないことを望む。
先月、私はさる女子学生から博士論文の謹呈を受けた。発表論文数は予定や総説を含めると17冊に及ぶ。殆どが外国の一流専門学術雑誌に発表されている。その内彼女が筆頭者である論文は9冊で、最新の総説は近刊の専門書の1章になるらしい。彼女は6年間給与のない多分奨学金に支えられた研究生活を続けて博士号を取った。私はお祝いの言葉に「専門屋は博士になって一人前」と添えた。
だがポスドクの就職は厳しいらしい。私の頃の大学院卒業者の待遇は、学士として先に就職した同年輩者と同じであった。大学院出はトウが立っていて、企業風土になかなか溶け込まないと云うのが会社側の悪口であった。専門性の裏返しであると分かっていても誰も云わなかった。その後待遇を改善した企業もあろうが、今も同じ姿勢で修士や博士を雇うところも多いのではないか。生涯所得で見ると、並みのコースでは、大学院在席が長ければ長いほど報われないシステムが、わが国では一般的だと思う。男子ならまだ研究所長として重役の端に繋がる可能性はある。だが女子だ。私は彼女が就職するときに、研究させて貰えるのだから有り難いと思わねばならぬ、発明の分け前など更々口に出してはならぬなんてとても云えない。

('04/02/03)