ハンニバル戦記(下)


最近のカネボウの破綻の原因を探ると、3/11の毎日の解説によれば、伊藤淳二元社長の長期政権に行き着くそうだ。消費環境の変化にも関わらず、一時の好成績どきの路線から離れられなかったようだ。この本の冒頭には、成功者であるがゆえの頑固者は、状況が変革を必要とするようになっても、成功によって得た自信が、別の道を選ばせることを邪魔するのであると記す。ハンニバルをイタリア半島の長靴のつま先に押し込める持久戦法に成功したファビウスは、スペイン戦線で輝かしい勝利を収めた若きスキピオのアフリカ遠征論に真っ向から反対した。追いつめたとはいえ、ローマの4軍団はハンニバルに対してはさして戦果を挙げ得なかったし、カルタゴ援軍上陸の危険が去ったわけではなかった。本土を叩けというスキピオの主張は危険な賭と映ったのであろう。妥協を知る元老院は、スキピオにシチリア防衛を命じる。いったんは追い払われたが、カルタゴ軍は再びシチリアに上陸していた。
シチリア制圧後、スキピオ軍がアフリカに逆上陸するとカルタゴはあわてた。スキピオの思う壷であった。講和休戦となり、ハンニバルは本土より召還命令を受ける。彼は精兵15000を選び、取りすがる残りを振り払って、アフリカに上陸する。カルタゴからはかなり南方のハドゥルメトゥムという場所である。当時の制海権はローマ側にあって、カルタゴ海軍は手も足も出ない状態であったから、妨害を恐れたためといわれる。カルタゴは急に勢いづく。ハンニバル留守中の第一戦では、アフリカのカルタゴ軍と重要な同盟者・ヌミディア王の騎兵部隊はスキピオの夜襲放火により完膚に打ちのめされた。ハンニバル軍でも戦術の要にあったヌミディア騎兵が敗れたことは今後に大きく作用する。第二戦でも、かろうじて騎兵の一部が落ち延びることができたとはいえ、歩兵部隊は全滅に近かった。すでにカルタゴはパニック状態であった。市民兵として戦ったことのない民族だ。さもあろうと想像できる。
ハンニバルには新たな軍勢が補強され、ローマ軍団を数の上では凌いだ。しかし要の騎兵は今やローマの方が上で、ザマの決戦では数も4000に対する6000と多かった。カルタゴが永年にわたって頼みとしていたヌミディア騎兵が、ハンニバルに付き従って遠征に参加したもの以外はスキピオ側に移っていた。戦いはハンニバルがイタリア戦線で見せた戦術をスキピオに駆使される結果となった。スキピオは「ザマをみろ」と戦後言ったかどうかは知らないが、ハンニバルは虎の子の15000をも壊滅され、かろうじて本拠地に逃げ帰る。なお「ザマをみろ」のザマは様であって、ローマ史カルタゴ史に由来するものではない。念のために書き添えます。
カルタゴ軍の特徴は象隊である。だが今まで、シチリアの第一戦を除けば、象隊はほとんど役に立っていない。ローマ軍に象の弱点を読まれて、かえって足手纏となっている。ハンニバルは象隊を一列横隊に並ばせ、突進による歩兵攪乱戦法をとったが、スキピオに予め訓練された回避法(素通り通過法)でローマ軍はまたまた事なきを得ている。
ハンニバルとスキピオの両代表間で取り交わされた講和条約は、意外なほどにカルタゴに寛大であった。カルタゴは独立国の体面を保ち、旧領のうち第二次ポエニ戦役以前のアフリカ内領有地を保証された。だが敵対国になったヌミディア王国を承認させられ、ローマの許可なしに軍事行動をとることを禁止された。結果としては、この二つがカルタゴの命取りになる。イタリア内地深く侵入され、多大の災害を受けたにもかかわらず、復讐的色合いがほとんど無い条約内容に驚かされる。しかもローマの市民集会はただの一度でこの講和案を承認したという。戦争という、人類がどうしても超脱することのできない悪行を、勝者と敗者でなく、正義と非正義に分け始めたのはいつの頃からであろうと著者は言う。二次大戦以降、勝者の論理で敗者の指導者を非正義として裁くことへの疑問である。
東方のヘレニズム諸王国の中では、マケドニア王国はアレキサンダー大王以来の伝統の重装歩兵軍団を持つ最強の軍事勢力で、ハンニバルに呼応しようとしたこともあるし、ギリシャやペルガモン王国に対する侵略の意図を隠さなかった。彼らを、ギリシャも加わったローマ軍が破ったときも寛大であった。そのときの主将フラミニヌスは「敗者の絶滅は、ローマのやり方ではない。武装を解いた敗者に対しては、こちらも武装を解いた心で対するのが、これまでは常に我々のやり方であった。」と言ったそうである。地中海沿岸の2強国を制圧したローマは覇権国家となった。沿岸もう一つの大国エジプトは常に協力的平和主義的であった。穏やかな帝国主義の時代である。
ハンニバルのその後は悲劇的であった。カルタゴ再建中に反ハンニバル派にローマに密告されシリア王国に逃げる。シリアでは一方の将として用いられたが、終局はシリアがローマに破れ、クレタ島へ逃亡、さらに黒海沿岸にあるビティニア王を頼って亡命する。カルタゴを去ること1800kmの、今のトルコの首都インスタンブルの南方に広がる王国である。彼はローマに引き渡される前に、かねて用意していた毒薬をあおって死ぬ。私が小学生の頃読んだハンニバル伝記では、忍び寄るローマの刺客から逃れるために、自裁したと書かれていた。
何しろ「生きて虜囚のはずかしめを受けず」の帝国陸軍戦陣訓がまだ記憶に生々しかった時代である。悲劇の英雄として、私の心をとらえた死に方であった。64歳であった。ハンニバルの弟3人もそれぞれ地域軍あるいは遠征軍の総帥として出陣し、兄より先に戦死している。偶然同じ年に天敵スキピオも52歳で死ぬ。スキピオは使途不明金の追求に嫌気がさし政界を引退していた。3/12の韓国大統領弾劾の理由にも政治資金問題があったと記憶するが、元老院の「第一人者」であったスキピオも反対派にお金の問題を使われたのである。
マケドニア王国のフィリップスが死ぬと、東地中海にまたも戦雲が動いた。嗣子が反ローマであったからだ。しかし4.4万を集めたマケドニア軍も1時間ほどの合戦で3万ほどのローマ軍にあえなく敗退した。半数以上の戦死者を出すという信じがたい敗戦であった。王は捕らえられイタリアで後生を送る。このころからローマは随所に帝国主義的厳しさを敗者に課すようになる。マケドニア側に立った町の略奪奴隷化である。それでもまだ直轄統治の属州化まではゆかなかった。
カルタゴの死は不幸が重なったためという。穏やかな帝国主義のスキピオを元老院から追放したカトーはカルタゴ征伐論者だった。ヌミディア王国のカルタゴ侵略が起こった。カルタゴは軍事二流国化されていた上に、軍を動かすのにローマの許可が必要だった。しかしヌミディア王国はローマの重要同盟国である。貧すれば鈍するという諺があるが、政治判断に関しては、カルタゴには大局を見る目がなかった。かって地中海の覇権を握ったほどの大国であった誇りが災いしていたのかもしれない。ローマの過酷な要求を飲んで帰国した平和使節団は市民に殺された。籠城3年の後、カルタゴの神殿は炎上し落城した。女子供を入れ生き残った5万人は全員奴隷とされ、民族は消滅した。第二次ポエニ戦役でハンニバルの捕虜となり、ギリシャに奴隷として売られた兵士が、ローマの対マケドニア戦参戦のおかげで解放されたのと好対照である。捕虜8千人のうち20年を奴隷として生き延びたのは1200人であったという。カルタゴの都市は徹底的に破壊され、入念にも跡地には塩が撒かれて植物の生育すら不可能になった。この間ギリシャのコリントにおいても類似の事件が起こっている。ローマは本式の帝国主義国家に変身したのである。
覇権国の国民が自らをそうと認識したときどう動くか。ハンニバル戦記(下)の扱うローマ史の一区分は、世界史の中でもっとも現代に参考になる場面を含んでいると思う。ローマ元老院は、カルタゴ使節が講和後のローマ外征への協力を評価してくれと泣訴したのに対して、「血も流さず(小麦援助だけで兵隊を送らなかったこと)にいて、なにを言う!」と嘲笑したと書いてある。現代の覇権国アメリカへの対応に粗漏があってはならない。

('04/03/18)