幕末の房総

- これは千葉県文書館の企画展の題名である。同じ日、千葉県立中央博物館の企画展「古文書が語る江戸時代の東京湾−漁業・海上交通・沿岸防備−」を見た。これと重複する内容もあって、1室だけの小規模の展示だったが、結構印象深かった。以下双方から私にとって新発見であった資料を書き記す。いきおい断片的にならざるを得ないことを予めお断りしておく。
- 双方とも展示数の上では文書が大半を占める。たいていは達者な草書である。さっぱり読めない。せめて行書体で残してくれていたらとこの種の展示物を見るたびに思うが、当時はこれで堂々と通用したのだから仕方がない。我々は漢字に関しては退化する一方である。まだ私の年層は行書あたりまでなら何とかなるが、その次ぎ更に後の年層はもっとひどい。余計な話だが、テレビのクイズ番組などで著名人らしき人々の書く文字を見よ。金釘流でも漢字を使っているのはまだましな方で、仮名でしか書けない若者が一杯出てくる。まともに書けるのは黒柳徹子さん位で、彼女が孤軍奮闘している様はちょっと漫画チックである。毒づくのはこれぐらいにしておく。たまたま読める文書に発見があった。
- それはイギリス船図である。幕府の薪水供与令以降に浦賀にやってきたイギリス帆船の船内の模様が、外観のスケッチとともに書き残されている。シップ・データは全長65m、全幅16m、メイン・マスト2本、高さ72m、帆数13枚、メイン・デッキ高さ6m、上陸用舟艇5艘などとなっている。喫水が9mとある。現代の豪華客船は、例えばごく最近三菱重工長崎造船所で建造されたダイヤモンド・プリンセスが全長290m、全幅37.5m、喫水8.05mで総トン数が113千トンだ。飛鳥は全長192.8m、全幅24.7m、喫水6.7m、総トン数29千トンである。容積比でゆくと、このイギリス船は1000-3000トンそこそこの船であったのだろう。それでも沿岸の漁民達が見慣れていた五大力船などに比べれれば、仰天するほどの大船であった。五大力船は大きいのでも全長20mであったという。喫水が現代船に比べて深い理由は、よく分からないが、帆船の横流れを防ぐために、船底キール部に縦長の構造部材を取り付けているからではないか。
- 大砲12門を備え、乗員150名は銘々が小銃を持つと言うから、ちょっとした軍艦である。自国領海を一歩でも出たらもう無法地帯と思わねばならないと云うことである。あるいはこの戦力で恐喝まがいの商売をしたのかも知れない。風任せの航海をしながら150人を食わすのは大変だろう。豚数知れずと記載されている。食料がありそうで戦備の薄い場所では、たちまちに強盗略奪部隊に様変わりしたのであろう。幕末の日本にも薩摩宝島にそんな被害の記録があるそうだ。
- 富津砲台跡を見物に行ったことがある。列強の艦船が沿岸を周回するようになってあちこちに海岸防備の砲台が築かれた。富津が有名だが、数が多かったのは安房の国である。外房の一宮や銚子にも築かれている。江戸湾防備を仰せつかったのは、当初は地元以外では会津藩、岡山藩、白河藩、忍藩などで、さすがに譜代ばかりで外様の雄藩は入れてない。しかしペルー以降では三浦半島側に長州藩、熊本藩を配備し、上総には柳川藩を置いた。かれらは赴任台場地に領地を貰い台場、番所と居住家屋を建設し、家族もろともに移住して任務に当たった。任地で死んだ藩士の墓が散在する。一つ気になったのは無縁墓として墓石が片付けられかかっている写真があったことだ。長秀寺の忍藩士の墓である。寺は、墓地に空きを造るために、時折整理をやることは知っている。しかし国防目的に赴任してきて死んだ藩士の墓を、普通一般の無縁仏と同じ扱いにするのはどうか。地元は陣地の構築に人夫にかり出され下級兵士としても使役された。又財務上の負担も大きかった。その恨みの方が記憶に生々しいのであろうか。
- 大砲の砲弾の欠片が展示してあった。中空の球形鋳物だ。融鉄の注ぎ口である臍が見える。どのようにして中空にしたのかちょっと興味を覚えた。富津砲台から三浦半島まで最短でも10kmはある。だから着弾距離は少なくとも5kmは必要だ。軽い方が飛ぶから、その目的でわざわざ中空にしたのかなとも思った。世界大百科事典によると、薩英戦争では英国軍艦のアームストロング砲は薩摩軍の大砲の4倍も飛んだという。砲弾の形がドングリ状となり空気抵抗が減ったせいである。だがそのアームストロング砲でも射程は4kmと短い。富津砲台の旧式砲はだから普通なら沖合1kmの標的にしか届かない。中空にしたってそう伸びないだろうから、ペルー艦隊が戦争目的でやって来ても浦賀水道を易々と通過したはずである。それから、旧式砲には旋条がついていないから、打ち出された砲弾には回転が無く、ナックル・ボール同然で、目標をしかとは捉えないから、命中率は悪い。実戦では房総の砲台は江戸防備にそれほど役には立たなかっただろう。なお自転車が倒れない原理を砲弾に与えたアームストロング後装旋条砲の、最初の実戦経験が薩英戦争で、射程と着弾の正確性では優れていたものの、英艦では砲身破裂などトラブル続出であったという。
- 文書館企画展で文字が読めた資料の一つに奈良輪村組合絵図がある。奈良輪とは今のJR袖ヶ浦駅あたりで昔は奈良輪駅と云っていたと記憶する。組合とは近隣28ヶ村の連合である。その村名を見ると昔の村とは今の字つまり集落1ヶ所分であることが分かる。面積は28ヶ村全部でやっと袖ヶ浦市の半分強である。殆ど全部が現代に名を残している。この組合は全国に作られた組織形式であるかどうか知らないが、入り組んだ支配体制の千葉では広域行政のために必要であったようだ。ことにヒット・エンド・ラン型の急ぎ働きを取り締まるのに、関東取締出役いわゆる八州廻りとともに有効であったのだろう。中央博物館の歴史展示室に、奈良輪村の支配体制地図が示してあるが、それによるとこの小さい部落に領主が4人もいる。名主の家にはなんと支配者が3人も関係している。家屋毎に支配が違うという珍妙な体制である。
- ペルー提督日本遠征記は3巻で、出張報告書のようなたちのものであったらしい。各巻が大きく分厚いのに驚かされる。遠征記に入っている挿し絵は写実的な線描画で、幕末風俗資料としても一級品であろう。絵師の異国趣味からか、あるいは日本物産調査目的なのか、鳥獣魚までスケッチされている。正装の僧侶とか神社のスケッチは将来の宗教問題への布石だったと思うのは考えすぎであろうか。人物の表情はどことなく西洋哲人風で、まだ日本人の人相を捉えきっていないことが分かる。警備の侍達の服装は清人風に見えるのは、絵師の技量の限界を示しているのだろう。日本側に残る絵画的資料は漫画的戯画的で、文言による説明で詳細を記録しようとしている。ギリシャ鼻がよほど印象深かったらしく悪人面に仕上がっている。
- 学芸員の展示解説の日に行けばもっと良かったと残念に思った。文書館は展示だけだが、読む展示は疲れる。博物館のような解説サービスが欲しい。
('04/01/13)