ハンニバル戦記(中)

- ローマの地中海覇権を決定付けたのは第二次ポエニ戦役である。イタリア半島、シチリア、スペイン、フランス南岸、マケドニア、ギリシャ、カルタゴのアフリカ北岸、エジプト、中近東地中海沿岸国までを巻き込んだ「世界大戦」のはしりであった。カルタゴの英雄ハンニバルの悲壮な決意、見事な用兵、ローマ側の粘り強い応戦など、著者・塩野七生は読者を飽かせない。特にスペインの総督であった弱冠28歳のハンニバルがピレネー山脈を越え、フランスを横切り、アルプスの奥深くからイタリア北部平野に打って出、大勝を博するあたりは、老年に入った私でも血湧き肉踊るくだりである。ローマ史ハイライト中のハイライトだ。
- 発端はスペインのギリシャ植民都市に対する攻撃であった。ギリシャ植民都市が同盟関係にあるローマに援軍を要請する。著者は防備がそれほどでもない植民都市を、ハンニバルが攻め落とさなかったのは、ローマの宣戦布告を引き出したかったためではないかと云っている。ローマに勝つにはイタリア本土を攻略せねばならぬと、ハンニバルは悟っていた。第一次ポエニ戦役敗戦に学んだ結果である。しかし今や地中海の制海権はローマに渡ったままである。残された道は陸路しかない。陸路はガリア人が立ち塞がっているが、彼らはローマに対しても敵対関係にある。それに当時は北イタリアはまだガリアの支配地であった。一口にガリアと云っても彼らは群小の部族に分かれ、相互の抗争が絶えなかった。ハンニバルはガリア地区通過に成算があった。だが、北イタリアに出るだけでも1000kmを超す。実際は南イタリアの軍港ターラントを陥落させるのだから、順当に行軍しても片道が2000kmを超す大遠征で、それを混成傭兵軍団を率い、全てを援軍なしの現地調達と言う条件で実行したのである。正に驚異的だ。
- 出発したときのハンニバル軍は歩兵9万、騎兵1.2万で、アルプス越えに向かうのは歩兵5万騎兵9千であった。ハンニバルはこれに現地雇いのガリア兵だけで全期間を戦う。ガリア兵補給も、ハンニバルの南下作戦のために距離が空き、途絶えてしまう。南下作戦は本国からの補給基地確保に必要だった。しかしターラント陥落にもかかわらず、カルタゴの補給作戦は殆ど失敗だったようだ。制海権の無さはハンニバルに過酷な戦いを強いる。ローマ軍は始め4軍団の歩兵4.8万、騎兵2.8千だったが、6年後の戦線が膠着状態に入る頃には25軍団にも増強されている。北部のガリアには始めから反ローマ的部族が数多く存在した。すでにローマに組み入れられていた中南部は、両者の部族争奪外交戦の火花が散った場所である。永年のローマの同盟都市市民優遇策は、ローマが苦境に立ったとき効能を発揮した。南イタリアの一部を除いては、ハンニバルが期待したほどには、各都市はローマに反旗を翻さなかった。離反したのはシチリアのシラクサ、南イタリアのカプア、ターラントらの諸都市あたりであった。
- さて緒戦の経過に戻ろう。当時の戦争は重装歩兵同士の戦いが勝敗を決めるのが一般的であった。ローマ軍は市民軍で、隊伍を組んで組織的に戦う。傭兵軍団で、個人個人が勝手に渡り合うその頃の常識とは全く異なった存在で、当時の最強軍団であった。映画スパルタカスの最後の方でカーク・ダグラスのスパルタカス率いる奴隷軍に対し、長方形型に整列したローマ軍が軍鼓と共に行進を始めるシーンがあるが、戦場であれをやられたら相当な圧力を受けたであろうと納得している。それにあのキンキラキンの派手な武装装束。著者はガリア人やゲルマン人に比してラテン人は背が低かったので、虚勢も必要だったのだと解説する。統計は見たことがないが、南イタリア人の背丈は北欧人に比べると全く低い。私は昭和40年頃であったかドイツで一際低い一団を見つけ、尋ねてみたことがあった。
- ローマの重装歩兵は期待通りの働きをした。しかし騎兵は違った。ハンニバル軍のヌビディア騎兵は戦闘能力でローマ騎兵を圧倒した。数も多かった。信じられぬ事だが、ローマ騎兵はまだ鐙を知らなかった。アメリカ・インディアンの騎乗と同じで、よっぽど修練を積まないと自在には乗りこなせない。記憶が曖昧なので恐れ入るが、たしか長野県立博物館の第2室あたりで見たと思う、騎馬民族とは云えない日本民族でも馬に鐙を付けた騎乗武人の埴輪が残っている。騎兵の勝利でハンニバルはローマ軍を包囲殲滅した。この実績はローマに恨みの多かったガリアの諸部族民をハンニバル軍に取り込むことを可能にした。両軍はそれより長期戦に突入するのである。戦の前に、ハンニバルが軍を鼓舞した背水の陣の宣言は以前どこかで読んだ憶えがある。後がアルプス、前がポー河、両側が海。勝つか死ぬかだと迫る。誰にでも分かる論理の持つ力は大きい。
- アルプス越えの正確なトレースは歴史学的に出来ていないそうだ。ハンニバルはフランス南岸のローマ軍との戦いを避けてまだ自然のままの内陸を進んだ。それでもガリア族との摩擦やローマ先兵との衝突などで1.3万を失った。ターナーの歴史画「雪の嵐:アルプスを越えるハンニバルとその軍隊」にその苦難の山越えが描かれている。絵の中に小雪が舞っていたかどうかもう忘れたが、9月そろそろ山は雪の頃であったという。馴れぬ山道を動かぬ30頭の象を引き連れての行軍であった。ガリア族の襲撃も再々であったらしい。15日のアルプス越えでハンニバルは2万の兵士を失った。手元に残った軍隊は2万の歩兵と6千の騎兵であった。これで地元のローマ軍−著者の計算では動員可能兵力が75万と云う−と対峙するのだから、全く英雄でなければ考え及ばぬ作戦である。
- ローマはイタリアでは正面衝突を避けた。戦争はシチリアへのカルタゴ本国軍の上陸、ハンニバルの本拠地スペインへのローマ軍の侵攻など全面戦争化した。ローマ軍は次第にその強さを発揮し始める。シラクサが落ち、カプアが陥落する。シラクサの攻城戦ではアレキメデスが新兵器でローマ側を苦しめるが、お祭りに乗じて侵入したローマ軍に殺される。イタリアの野戦においてさえ、ハンニバルが指揮を執らない方面軍は、ローマ軍に破れ出す。ハンニバルへの補給は途絶え、彼の虎の子の親兵もじり貧である。スペイン戦線では逆にローマ軍が追い込まれていた。ここらまでが第4章である。ハンニバルがスペインを出発してからもう8年が経過していた。
- ハンニバル戦記(中)の最終章にはローマ側の英雄スキピオが登場する。ローマの元老院が彼のスペイン派遣を決定したのは、彼が弱冠24歳の時であった。スペインのカルタゴ勢は二度の大会戦で壊滅した。ハンニバル応援のために3万の精兵を率いてアルプス越えをした弟は、雄図虚しく、メタウロの会戦に敗れ討ち死にし、その首がハンニバルに送られる。もはやハンニバルには勝利の方程式が見えなくなってきた。
- 類い希な武人であるハンニバルを擁しながら、なぜカルタゴに勝利の女神が微笑まなかったのか。一番の理由はカルタゴ本国の無策である。ハンニバルが勝ち続けている間に和平にも持ち込めず、かといってローマを怯ませるほどの戦闘上の打撃は何も与えなかった。カルタゴ本国には戦火が及ばなかったために、ローマに対し受け身受け身の防衛的姿勢が多かったのではないか。すでに述べたように、軍隊が市民軍団であるか傭兵軍団であるかの差も一つ一つの戦闘では戦意の差として大きく響いた。ローマ軍には有能な司令官が輩出したが、カルタゴにはハンニバルしかいなかった。いや、凡庸でない指揮官はローマ軍に匹敵するほどにおったろう。だが、金で結びついた関係の軍隊では、特に崩れ始めた戦闘局面で、堪えきることが出来なかったのであろう。再々出てくるが、ローマ軍の指揮官は敗戦の責任があってももう一度汚名をすすぐ機会を与えられることが多かった。それとは反対に、カルタゴ軍の司令官には戦いに敗れると死刑が待っていたという。それが司令官を慎重消極姿勢に導き勝ちで、オーソドックスな戦法に終始させ、果敢な一か八かの戦闘には踏み切らさなかったのであろう。カルタゴ軍の象隊は戦闘が始まると暴走して味方を潰すことが多かったのも原因に数えられるであろう。
('03/12/24)